ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年5月20日


2012年5月20日 主日礼拝説教
「あなたのみこころのように」(マタイの福音書26章30節〜46節)

■はじめに

 イエス様と弟子たちは、過越の食事を終えて外に出ました。オリーブ山の近くにある、ゲツセマネという園にイエス様と弟子たちは向かいました。

30そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

■あなたがたはつまずきます

 エルサレムの町中から離れたこの場所は、祈りの場として、イエス様たちがいつも使っていたところでした。その途中のことです。イエス様はご自分の死と復活、そして弟子たちがイエス様につまずくことを言われました。

31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。32しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

 まもなく羊飼いであるわたしが打たれ、そのとき、羊であるあなたがたは散り散りになります。このゼカリヤ書のことばが実現するのです。

ゼカリヤ書13:7「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。──万軍の【主】の御告げ──牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」

 最後の晩餐の席で、イエス様はイスカリオテ・ユダが裏切ると言われましたが、今度は弟子たち全員がつまずく、信仰が試されると言われました。

33すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」34イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」35ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

 ペテロはイエス様に、私は死んでも従いますと言い張ります。このあとペテロは、捕らわれたイエス様を見届けようとついていくのですが、イエス様が言われたとおり「鶏が鳴く前に」三度イエス様を知らないと言ってしまうのです。
 ほかの弟子たちも「みなそう言った」とあるのですが、みなイエス様が捕らえられた時に逃げ出してしまうのです。

■ゲツセマネの園

36それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」37それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

 イエス様は、ゲツセマネという園につくと、入口で「ペテロとゼベダイの子ふたり」、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、ほかの弟子たちは残して奥に入って行かれました。ユダの手引きによって、まもなくここに長老、祭司長たちから差し向けられた人々がやってこようとしていました。そのような中、イエス様は、「悲しみもだえ始められた」とあります。

38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

 イエス様の生涯で、このようなことはなかったでしょう。イエス様は、人のために同情し、悲しむことはあっても、自分の弱さを嘆くことはありませんでした。それを弟子のペテロたち3人に告げたのでした。
 イエス様はここにきて、人間としての悲しみ、苦しみ、弱さを味わわれたのでした。それは、全人類のすべての罪を背負われ、それに対する刑罰をただ一人で受けられるという苦しみでした。イエス様は罪ある者とみなされ、罪にのろわれた者となり、神に捨てられることになるのでした。

コリント人への手紙第2、5:21「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義(罪が赦され、神の前に正しい者とみなされる)となるためです。」

 イエス様の恐れは、神のさばきにあうことの恐怖でした。これが人間の現実の姿でした。

■1回目の祈り

39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 イエス様はひれ伏して祈り始めました。イエス様が罪人になられて、神様の前に出たのです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」杯は、全人類の罪に対する神の刑罰を表していました。「できますならば」は、「あなたさまは、おできになるお方ですので」という訴えです。「わたしから過ぎ去らせてください」は、経験しなくてもいいようにということです。それがイエス様の切実な願いでした。
 間近に迫った十字架を、できるものなら避けることができるようにとイエス様は祈りました。しかし神様の答えは沈黙のままでした。イエス様は、沈黙の中に父なる神様のみこころを知りました。罪を罰しなければならない神の義の厳しさ、しかし同時に、人間を滅びから救いたいという神の愛。それには、愛するひとり子であるイエス・キリストが人間の罪を負い、十字架の苦しみに会わせるしかなかったのでした。
 祈りは1時間ほど続きました。そして、イエス様が行き着いた祈りが、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」でした。すべて神様のみこころ、ご意思に従おうとする祈りでした。
 「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、苦悩から救ってください、という切なる願いから、神様のご意思、みこころならばそうなさってください、という祈りに変えられていったのでした。

40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 イエス様は、弟子たちのところに戻ってこられました。弟子たちは、いつの間にか眠ってしまいました。イエス様は、ペテロたちの心は燃えていることはご存じでした。イエス様は、弟子たちの熱心さをわかってくださいました。熱心であっても、「心は燃えていても、肉体は弱」く、疲れていることもご存じでした。

■2回目、3回目の祈り

42イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

 イエス様は2度目の祈りに入りました。イエス様は、父のみこころを確信しました。1回目の「わたしの願うようにではなく」は、「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら」と変えられていきました。イエス様は、十字架以外に救いはないことが神様のみこころと確信し、父なる神様に従い十字架の死を受け入れたのでした。

へブル人への手紙5:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

43イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

 イエス様はまた戻ってこられましたが、弟子たちはまたもや眠っていました。イエス様は3度目の祈りをされるために園に戻っていかれました。

44イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。45それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。

 「時が来ました。」十字架によって罪の贖いを成し遂げる時が来たのでした。

■立ちなさい

46立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 イエス様は、「目をさまして、祈っていなさい」と言われながらも、眠ってしまった弟子たちを励まし、立ち上がらせてくださいました。しかし、「立ちなさい。さあ、行くのです」と言われながらも、このあと、足がすくみ、逃げ出してしまう弟子たちでした。
 イエス様は、十字架にかかられたあとよみがえること、さらにイエス様が天に帰られたあと、助け主としての聖霊なる神様を、一人一人のために送ってくださると約束しておられました。それは、弟子たちが復活のイエス様にお会いし、聖霊の働きによって本当に立ち上がらせてくださるため、いつもイエス様が共に歩んでくださり、いつも共にいてくださることをわからせてくださるためでした。そのためにイエス様は、この時、ゲツセマネの祈りで、弟子たちの罪が赦されるようにと、神様のみこころのまま十字架への道を受け入れてくださいました。
 弟子たちの弱さを知り、弟子たちのこれからの歩みをも見据えてくださっていたイエス様を覚え、イエス様に感謝して、私たちもイエス様と歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年5月20日