ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年4月1日


2012年4月1日 主日礼拝説教
「目を覚ましていなさい」(マタイの福音書24章32節〜51節)

■はじめに

 24章は、世の終わりについて、またイエス・キリストの再臨という、これから起こることについて語っています。弟子たちがエルサレム神殿のすばらしさに驚きの声をあげている時に、イエス様は、どのような立派な建物もやがて崩れ去る時が来ることを教えられました。そして、弟子たちからの、「そのようなことはいつ起こるのですか」との問いに対して、終わりの日の前兆と再臨について教えてくださいました。
 今日の箇所は、その時を待つ弟子たちの心構えについて語ります。

■近づいている

32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 いちじくの木のたとえによって、それが近づいており、必ず起こることを教えます。いちじくは、この地方ではありふれた木で、聖書によく出てくる植物です。冬に葉を落とし、葉が出てくるのが5月か6月ごろです。これは、人々にとって、夏がもうすぐやってくるという前兆でした。そして、あっという間に夏になります。つまり、前兆が始まったら、終わりの日、イエス様の再臨が突然やってくることを教えています。
 また夏は収穫の季節です。イエス様は、ご自身の再臨の時を、葉が枯れ始めた時や、葉が落ち始めた冬ではなく、いのちあふれる夏の収穫の時として表現されました。それは最も喜ばしい時、収穫の歌声で満ちている時なのです。

33そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

 「これらのことのすべてを見たら」とは、今まで述べてきた前兆です。人の子であるイエス様の来臨が近づきました。イエス様は、それがごく近く、「戸口まで」迫っているものとして教えられました。

34まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 「まことに」(アーメン)は、大切なことを宣言するときに使うことばです。終わりの時の前兆が全部起こってしまうまで、「この時代」つまりイエス様が生きていた時代は「過ぎ去りません」とおっしゃったのでした。確かに、最初の弟子たちは、世の終わり、イエス様の再臨は自分たちの世代、間近にあると意識していました。
 こう言われたのは、イエス様は、自分たちの生きている時代にキリストの再臨があると思いなさい。そのような緊張感のなかに過ごすように教えたのでした。

35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 神様が造られた天地は変化し、やがては滅び去ります。しかし、神であるイエス様のことばは決して滅びません。イエス様のことばは、天地の持続することよりもなお確実なのです。
 この天地に私たちの生活すべてが含まれています。それが、やがては過ぎ去っていくのです。しかし主のことば、救いのことばは絶対に変わることのない、永遠、不変の真理です。イエス様は、ご自身のことばの権威にかけて、その日が必ず来ることを保証されました。

■突然にやってくる

 2つ目は、それはだれも知らない、突然にということです。

36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 終わりの日がいつなのか。それは父なる神様のみが知っておられ、天の御使いも知らない。子であるイエス様も知らないというのです。それは、イエス様が知ろうと思えば知ることができましたが、弟子たちが知りたがっているその日がいつであるか、弟子たちに教える必要がないとおっしゃったのでした。それほど、その日がいつかを詮索してはいけないことでした。

37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。38洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 ノアの時代も、明らかな前兆があったにもかかわらず、ノアのことばを人々は信じませんでした。ノアが箱舟を造り出し、また箱舟が出来上がり動物たちが箱舟に入り始めても、まだ「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」。信じない彼らにとっては、洪水は突然の出来事でした。このように、人の子は突然やってくるのです。
 それは、日常生活が突然、途絶えるようにして起こります。

40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

■目を覚ましていなさい

 3つ目は、それはいつであるかわからないから、絶えず「目をさまし、用心して」いなさいということです。イエス様は、それを「どろぼうと家の主人のたとえ」で語られました。

42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから

 思いがけない時に突然やってくるが、必ず来ることを知っているので、不安に陥ることなく、「目をさまし、用心して」いれば大丈夫です。そのように備えをしていなさい、というのです。

■忠実な賢いしもべとして

 4つ目として、どのように「目をさまし、用心する」かを語ります。

45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。47まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

 「忠実な賢いしもべ」として歩むことです。このことについては、25章にあるたとえ話でさらに詳しく語られます。

48ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、49その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、50そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。51そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 これは、同じしもべ仲間でも、悪い不忠実なしもべについて語っています。彼らは、イエス様の約束は実現しないのではないかと思ってしまうのです。彼らが「仲間を打ちたたき」、「酒飲みたちと飲んだり食べたり」している時に、「思いがけない日の思わぬ時間」に主人が帰ってくるのです。

■主を待ち望む

 終わりの日は必ず来るが、それがいつであるかイエス様さえも知ろうとしなかったことでした。だが、その時はわからないとしても、必ず来るのです。だから油断しないように、目を覚まし続けていなさい。私たちは、落ち着いて良い管理者の働きを果たすべきです。そうすれば、終わりの時は、希望のある終わりの時となるのです。
 聖書が書かれた時代は迫害の中にあり、終わりの日、イエス様の再臨がすぐにでも起こることを期待させた時代でした。そのような中、終わりの日が近いから仕事をしても仕方ないと、締まりのない生き方をした人たちがいました。

45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 私たちは「忠実な賢いしもべ」として歩むのです。それには、私たちが目を覚まし、眠らないためにも、教会に集まること、みことばを聞くことが大切であることを教えられます。

ヘブル人への手紙10:25「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 私たちの歩みを確かにし、今日の聖餐を通して、イエス様にお会いする日を待ち望みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年4月1日