ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年3月11日


2012年3月11日 主日礼拝説教
「主の御名によって来られるお方」(マタイの福音書23章29節〜39節)

■はじめに

 先週は、13節からの律法学者、パリサイ人に対する「7つのわざわい」のうち6つを見ました。彼らは天国への道を閉ざし、聖書の教え、律法の本質を理解していませんでした。彼らは心を問題にせず、たえず外側、見栄えを問題にしていました。彼らは神を知っていると言いながら、神様が心の中を見抜くお方であることを忘れていました。それらに対するイエス様のきびしいおことばでした。

■預言者を殺した罪

29わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、30『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 「律法学者、パリサイ人」は、昔の預言者や義人たちの墓を建てることで、自分たちの敬虔さを誇り、また私たちなら預言者を殺すことはなかったと言っていました。しかし、その心は高慢な思いで満ちていました。
 「偽善の律法学者、パリサイ人」は、神の子であるイエス・キリストが来られたのに、その救い主を拒否し殺そうとしていました。こうして彼らは「父祖たちの罪の目盛りの不足分を満た」そうとしていました。彼らは「蛇ども、まむしのすえども」であり、「ゲヘナの刑罰」から免れなかったのです。

34だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 イエス様の十字架と復活の後、イエス様の教えを伝えようとする人たち(「預言者、知者、律法学者たち」)が起こされますが、その人たちも、ユダヤ教の律法学者、パリサイ人たちに迫害され殺されることになるのです。

35それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。36まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。

 「アベル」は旧約聖書で最初に殺された人です。「バラキヤの子ザカリヤ」は、旧約聖書で最後に殺された人です(歴代誌はヘブル語旧約聖書では最後に置かれています)。律法学者、パリサイ人の悪がきわまり、旧約聖書で起こったすべての正しい者が殺された罪に、イエス様の十字架の死が加えられようとしていました。それらすべての悪に報いが下るのでした。

■エルサレムへの嘆き

 イエス様は、さらにエルサレムに嘆きのことばを向けます。

37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

 「エルサレム」は神殿がある都、神様がそこにおられ、神様が保護されている都市でした。長い歴史を刻んで来た都であり、イスラエルの誇りでした。人々は、エルサレムは神様の保護の下にあると信じていたので、エルサレムは滅ぼされることはないと思っていました。
 確かにエルサレムは、神様が愛と忍耐が示された都でした。神様はエルサレムに、何度も愛の招きを、預言者を送り続けました。しかしエルサレムの民は、神様にそむき続け、預言者たちのメッセージに耳を傾けなかったのでした。
 そればかりか、彼らは「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者」でした。神様に助けを求めなかった王に対して、偶像礼拝に陥る民や指導者たちに対して、預言者は神に信頼し立ち返るように訴えました。エルサレムは、そのような人たちを憎しみのうちに殺したのでした。
 しかし神様は、「めんどりがひなを翼の下に集めるように」エルサレムを愛し、守ってこられました。

詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」

 神様は、そのようにイスラエルの民を養い育てました。しかし、それに応じようともせず、エルサレムは主の憩いの中に入ろうとしませんでした。
 「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」イエス様は、「わたしは」はそうしてきたと言っています。親鳥のようにイスラエルに安住の地を与え、養い、外敵から守ってきたのはイエス様でした。そのように幾度も、イエス様は救おうとされたのに、「それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」のでした。エルサレムは、神様の愛を、神様の救いを好まず、神様の働きかけに逆らい、特別な立場を忘れ、神様から離れ、堕落してしまったのでした。
 それゆえに、今やエルサレムは、神様のさばきが最も現れるところとなりました。与えられた愛が大きければ大きいほど、受けるさばきも大きいものになるのでした。
 預言者を「石で打った」行為は、イエス様に向けられようとしていました。エルサレムで行われるイエス様の十字架刑によって、エルサレムの罪が頂点に達するのです。しかし、それは神様の愛が最も深く、大きく表現される時でもありました。それゆえのイエス様の嘆き、「ああ、エルサレム、エルサレム」でした。

■主の御名によって来られれお方

38見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。39あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

 「あなたがたの家」は、エルサレム神殿であり、それが「荒れ果てたまま」となってしまのです。エルサレムは、全く神から見捨てられてしまい、さばかれるという預言でした。この時からおよそ40年後、紀元70年、ローマによってイスラエル国家が滅亡し、神殿は破壊され、エルサレムは崩壊されたのです。
 イエス様は、エルサレムのゴルゴタの丘で十字架に掛けられました。しかし、イエス様は天にお帰りになり、もう一度おいでになります。そのとき、迎える人たちは「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うのです。

詩篇118:26「主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」

 これは、神殿にいる祭司たちがエルサレムに来た巡礼者を迎えることばでした。それが、イエス様が再臨されるときの歓迎のことばになるのでした。そのときまで、もはやだれもイエス様を見ることはないのでした。

ヨハネの黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」

■主イエスの招き

 エルサレムへの嘆きは、今、イエス様の教えを聞いている、すべての国の人たち、私たちにも同じように注がれています。しかし、嘆きは希望に変えられました。
 希望は、エルサレムに、そして私たちにありました。イエス様は、今までの預言者以上の者でした。イエス様は、神様から遣わされた神のひとり子でした。神様に対して、誠実・忠実にその使命を全うされようとしていました。そして、私たちに対しては、翼の下にかくまうように幾たびも願われた、愛にあふれたお方でした。
 エルサレムの人たちの願いは、イエス様を殺すことであり、イエス様の願いはそれを愛でつつむように、集めること、救うことでした。十字架によって、すべての悪から、すべての罪から、すべての憎しみから、すべての高慢から解放されるのでした。
 それは、十字架の死がそのような罪の身代わりの死であったからであり、それを信じる人には、エルサレムの人も私たちも神様の赦しと愛を受けることができるからでした。
 今日も、私たちは、この神様の愛にこたえて、イエス様を見上げ、信じて歩みたいと思います。イエス様はきょうも呼びかけておられます。

マタイの福音書11:28−29「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年3月11日