ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年2月26日


2012年2月26日 主日礼拝説教
「自分を低くする者は高くされ」(マタイの福音書23章1節〜12節)

■はじめに

 イエス様がエルサレムに入城されてから、受難週(金曜日に十字架にかかる週)の火曜日にあった出来事、21章18節から始まる長い出来事を読んできました。ユダヤ教指導者たちからの質問に始まる論争が続きました。相手は「祭司長、長老」たち、「ヘロデ党の者たち」「サドカイ人」、また「律法学者」でした。
 先週は、22章41節からの箇所で、イエス様のほうからパリサイ人たちに、「ダビデの子」と言われているキリストはどういうお方なのかを質問されました。神様は、イエス様を私たちのために、見える形で、聖書の預言のとおり「ダビデの子」としてこの世に生まれさせてくださいました。イエス様は「ダビデの子」と呼ばれましたが、イエス様はダビデの主であられました。イエス様はそのことを、十字架と復活と昇天によって、この世の国ではない、この世をも支配する神の国の王であることが明らかにされました。
 「もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった」と、22章は終わりました。それでイエス様は、もはや聞く耳を持たなくなった人たち、イエス様をただ殺そうと、その機会をうかがっていたパリサイ人、律法学者たちに対してきびしいことばで語り始めるのです。

■モーセの座を占めている

1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。

 イエス様はこの話を、パリサイ人たちが去ったあと、「群衆と弟子たちに」語り始めました。イエス様はまず、「律法学者、パリサイ人たち」がモーセと同じ権威をもって人々に接していることを語りました。
 モーセとは、イスラエル人たちをエジプトから導き出したイスラエル最大の指導者でした。ユダヤ教の会堂で、モーセの書(旧約聖書39巻のうち、最初の5書をモーセが書いたので、それをモーセの書、モーセの教えと言った)が置かれた台があって、そこに律法学者であったラビが立って話をしました。律法学者にもいくつかグループがあって、最も厳格に律法を守り行おうとしていたのがパリサイ人たちでした。
 彼らは、モーセの書を解釈する権限が与えられ、人々の様々な生活の中で、モーセの書に書かれている律法をどのように適用するか教えていました。しかし、それらの律法解釈は、聖書本来の意味とはほど遠いものであり、愛のない、神をほめたたえることもない、人の自由を奪うだけのものになっていたのでした。

3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

 イエス様は、「律法学者、パリサイ人たち」の教えは、偽善的な律法学者が語ろうとも神のことばとして受け入れなければならないが、それを語っている律法学者の行いはまねてはいけないと語りました。人々は、律法学者の歩みこそ神様の教えを示す者、敬虔な模範的な生き方をしている者と思っていました。しかし、彼らの言うことと行うこととが一致していなかったのでした。

4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。

 人々に神様の恵みを伝えず、人々に重荷を負わせていました。その重荷とは、モーセの律法を解釈した「言い伝え」でした。それらをまじめに、実際に行おうとしたならば、神様への感謝もなく、喜びもなく、重荷としてしか感じられなかったのでした。

■人に見せるため

 イエス様は、彼らがしていること、まねしてはいけないことをさらに詳しく、具体的に語りました。

5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。

 「経札」とは、大切な聖書のことばを箱に入れ、頭や腕に結び付けておくものでした。それは神様の教えを忘れないために、神様がお命じになったことでした。
 一方「衣のふさ」とは、律法学者たちが付けていた着物の房のことで、イエス様もそのような衣を着ていました。

マタイの福音書9:20「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。」

 そのふさを人々によく見せるため、長く垂らしていました。
 彼らは、これら「経札」「衣のふさ」を大きくし、人々に、神のことばを守り、敬虔さを示すため、評判を得たいための小道具としていたのでした。

6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。

 彼らは人々からの称賛を得たくて、上座、上席に座りたがり、また上座を勧められるのを待って、当然のようにそこに座ったのでした。建物の中だけでなく、外へ出ても、広場で、あいさつされ、先生と呼ばれることを好んだのでした。

■自分を低くする者

8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。

 イエス様は弟子たちに、律法学者が呼ばれていた、「先生」「父」「師」という尊称を弟子たちの間では使わないように語りました。そう呼ばれることによって、名誉心、競争心、虚栄心などが生まれることに注意したのでした。これから教える立場になる12弟子たちに、教師はキリストであり、お互いに兄弟であることを忘れないように教えられたのでした。
 父についてもそうです。子に対してまことの愛を持ち、必要なものを与え、子に対して最善の導きを与えているのは、天の父なる神様であることを覚えなさいと教えられたのでした。

11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 自分を偉く見せたいと思うなら低くなりなさい。一番偉大な人は、仕える人である。これが律法学者たちを反面教師として取り上げ、イエス様が弟子たちに教えようとされたことでした。これと同じようなことは、今までも言われてきたことであり、弟子たちにとっては3回目になります。
 弟子の中でだれが一番えらいかという議論が起きた時でした。イエス様は、近くにいた子どもを呼び寄せ言われました。

マタイの福音書18:4「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」

 また弟子の中で、ヤコブとヨハネの兄弟が、イエス様の御国でイエス様の右と左に座らせてくださいと願った時でした。

マタイの福音書20:26−27「26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」

 イエス様は、ご自分がダビデの主であることを語ったあとで、パリサイ人、律法学者のようにならないようにと語ったのは、十字架を前にして、弟子として最もたいせつな生き方をもう一度教えようとされたからでした。
 それは救われるための条件ではありませんが、そのような自分を低くする生き方をこの地上において歩むなら、この地上でも祝福されるのです。

箴言22:4「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」

箴言29:23「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」

 人に仕える謙遜な思いで歩み、奉仕する人、そのように人に接する人、そのような生き方をイエス様は、弟子たちに求めました。それは、パリサイ人とは全く逆の生き方でした。

■人に仕える生涯を送った主イエス

 イエス様は、2日後の木曜日、最後の晩餐の席で、仕える人であることを自ら弟子たちの足を洗うことによって示されました。さらに、「仕える人」の歩みの最もきわまった出来事が十字架でした。人々のののしりの中、その者たちを思い、その罪を赦し、その罪を代わりに十字架で刑罰を受けてくださったのでした。

ピリピ人への手紙2:6−8「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 イエス様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません」という生涯を送ってくださいました。私たちは、救い主として、仕える人の生涯を全うされたイエス様を今週も感謝して歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年2月26日