ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年1月15日


2012年1月15日 主日礼拝説教
「礎の石となった主イエス・キリスト」(マタイの福音書21章33節〜46節)

■はじめに

 受難週の火曜日の出来事を読んでいます。先週、イエス様は、神殿で「祭司長、律法学者、長老」たちから「何の権威によって、これらのことをしておられるのか」と問われました。イエス様は逆に、バプテスマのヨハネのことを質問されました。「ヨハネは天から来たのか、人から出たのか」と。彼らは答えられませんでした。それに対してイエス様は、「ふたりの兄弟のたとえ」をお話しされました。そのたとえ話で、イスラエルの指導者たちが頑固にイエス様を受け入れようとしないことを指摘されました。
 今日の「悪い農夫のたとえ」では、イエス様はイスラエルの指導者たちがこれからイエス様をどうしようとしているかを語ります。さらに、ご自分がどういう者であるか、だれの権威を持ってやってきたかも示されます。

■ぶどう園の主人

33もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

 主人が新しくぶどう園を造って、それを農夫たちに貸して旅に出ました。ぶどう園とはイスラエルあるいは神の国、主人は神様、農夫たちはイスラエルの指導者のことです。
 「垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て」。主人は、ここまで、しっかりぶどう園を作って、必ず実がなるように手はずを整えて農夫たちに貸しまし。神様はイスラエルの指導者たちに、人々を神の国に導く役目を与えたのでした。

34さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。35すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

 いよいよ、ぶどう園が収穫する時が来ました。主人はしもべたちを遣わしました。しもべとは預言者たちのことです。ところが彼らは、送られてきたしもべたちを「袋だたきにし」、あるいは殺してしまいました。

36そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。

 主人は辛抱強く、多くの別のしもべたちを送りましたが同じことでした。神様から送られた多くの預言者たちは、人々に悔い改めと、神様に立ち返ること、そして、やがて救い主がやってくることを教えました。しかし、イスラエルの指導者たちは、それら預言者たちのことばを聞かなかったのでした。

■主人は息子を送る

37しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。

 主人は、最後に息子を送りました。息子とはイエス様です。主人は今までのことを不問にし、息子を送ろうとしました。常識では考えられないことを、主人はしようとしたのでした。あくまで農夫たちを信じて、「愛する息子」を送りました。これは、イスラエルに対する神様の大きな愛を示しています。

38すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』39そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

 農夫は、息子がやって来たので、この跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たち財産になる。これから好き勝手にできると考えました。この世は自分たちの意のままになる。自由になると思っている人間の姿を表しています。ここまで話してイエス様は、彼らに尋ねました。

40この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」

 このぶどう園の農夫とされたイスラエルの指導者たちは、そのことも気づかずに答えました。

41彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

 彼ら自らが、自分たちの行く末を預言したのです。主人は怒って、その農夫たちを滅ぼし、ぶどう園を「別の農夫たちに貸してしまう」のでした。神の国がイスラエルからイスラエル以外の異邦人たちに移っていくのでした。

■礎の石

 イエス様は、詩篇118篇のことばを引かれました。

42イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

 これは、家を建てる職人たちが、「こんなものが使えるか」と言って捨てた石が、建物が出来上がってみると、不思議なことに最も大事な柱を支える「礎の石」、家にとってなくてはならない最も重要な石になったということです。
 詩篇118篇は、見捨てられたと思われたイスラエルがなおも神様に選ばれ、守られる民であり続けることを歌った詩篇でした。しかしこの詩篇には、もっと大きな真理、預言が込められていました。捨てられた石はイエス・キリストでした。「礎の石」は、イスラエルの指導者たちに苦しめられ、捨てられ、十字架によって殺される神の子、イエス様を示していました。

43だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。44また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 イエス様は、神の国の祝福が異邦人に移っていくだけでなく、イスラエルの指導者たちには、きびしいさばきが下ることを預言されました。

45祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。46それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。

 彼らは、自分たちのことを言われていることに気づきました。彼らは以前からイエス様を殺そうと機会をねらっていました。しかし群衆を前にして、「祭司長たちとパリサイ人たち」は、今すぐには捕らえることができなかったのでした。

■イエス様の十字架

 イスラエルの指導者たちは、自分たちが持っているぶどう園の管理者としての権威、律法の解釈者としての地位を失いたくありませんでした。だれの手にも渡したくなかったのです。ところが、神様から遣わされたイエス様が彼らの前に現れました。イエス様は、彼らが守ろうとしていた律法の、本来の意味を解き明かされました。群衆はその教えに驚き、イエス様についていこうとしていました。
 ユダヤの指導者たちは、すべての人を愛し救いたいという神様の御心を知ることができず、そのためにやってきた神の愛する御子、イエス様を殺してまで自分たち権威を守りたいと思ったのでした。
 この時、イエス様を殺そうとする長老、祭司長たちは、イエス様を裏切ろうとするユダも、イエス様を裁こうとしているローマの総督ピラトも、そして最後は「イエスを十字架につけよ」と叫んだ民衆も、みな神様の救いのご計画の完成である、3日後に迫った十字架、すべての人の罪の代わりに死んでくださることになる十字架に向かって歩まされていたのです。

■礎の石となった主イエス

 イエス様は十字架で人々に捨てられたように見えましたが、イエス様は復活し、神様の栄光の座につかれました。そのことによって、イエス様が最も大切な礎の石となったことが、だれの目にも明らかになるのです。
 神様はこの世を愛され、最後に神の愛する御子を送りました。神様の御心は、その愛する息子が殺されることによって人々を救うことでした。
 捨てられた石は、すべての人の罪を赦す救いの石となりました。信じるすべての人に、永遠のいのちを約束する石となったのです。後にペテロは、イエス様の復活後、「律法学者、祭司長たち」に捕らえられた時、力強く語りました。

使徒の働き4:11−12「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 捨てられた石が生ける石となりました。いのちの源となりました。イエス様の十字架を信じる者には、永遠の祝福が与えられ、日々の歩みのなかで、あふれるばかりの喜びと恵みが与えられます。そのことを感謝してまた、今週も歩みたいと思います。


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