ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年11月20日


2011年11月20日 主日礼拝説教
「永遠のいのちを得るためには」(マタイの福音書19章16節〜22節)

■はじめに

 19章から、聖書が教える結婚と離婚、独身、続けて子どもを教会がどう受けれるのか、子どもについてどう考えるのかを見てきました。
 イエス様は子どもたちを前にして、「天の御国はこのような者たちの国なのです」と語られました。それは、神の国は子どもたちのもの、子どもたちこそが神の国に入ることができると教えられたのでした。またそれは、子どものように素直に受け入れた者たちの国である、という意味でもありました。子どものような気持ちで、天の御国を受け取りなさい、ということでした。天の御国、神様の御国に入るために、子どものようになること。これが恵みの中を生きる、信仰者の姿でした。
 さて今日の箇所では、この子どもたちの姿からは対照的な、富める青年がイエス様のもとにやってきました。彼も天の御国を求めていました。

■青年の問い

16すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 この「ひとりの人」青年は、ルカの福音書では「役人」とあります。ですからこの人は、「青年で、役人で、しかも金持ちであった」のでした。彼は何不自由のない、何一つ、恥じることのない生活をしている模範的青年でした。しかし、この青年の心は今ひとつ晴れなかったのです。問い続けている問題がありました。
 そこでイエス様のもとに来て、その疑問をぶつけました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」青年は、死んだら自分はどうなるのだろう、という問いに対する答えを得ていなかったのでした。
 青年は、イエス様が、その永遠のいのちを得るために行う良いことが何かを知っていると思ったのでした。

■主イエスの答え

17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 青年は、良いことをすることにこだわっていました。青年は良い行いを知り、それを行いたいと思っていました。しかしイエス様は、「良い方は、ひとりだけです」と言って、求めは良い行いをするかどうかではなく、ひとりの良いお方、神様のもとに来ることと、諭されたのでした。
 青年の根本的な誤りは、神様を求めるのではなく、行いを求めていました。イエス様は、そのことを正されたのでした。
 しかも神様は、行うべき良いことはすでに教えてくださっていました。それを聞いて青年は、「どの戒めですか」と尋ねました。自分のまだ知らない戒めがあると思ったのでした。

18彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 これは、十戒と言われるユダヤ人が最も大事にしてきた教えの後半の部分、人との関係においてどうあるべきかを教えた戒めでした。青年にとっては、特に新しいことではありませんでした。

20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 この答えは当然でした。多くのユダヤ人は、小さいころから、そのようにしつけられていました。役人であるならば、なおさらまじめに、誠実に生きていたのです。

■欠けているものは何か

 青年はイエス様に問いました。「何がまだ欠けているのでしょうか。」「先生、教えてください。そうすれば、私はそれを実行します。」
 しかしイエス様は、この青年の守り方が、神様の目から見るならば不十分であることを、次のことばで示されました。

21イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 イエス様は言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら」、良い行いをして、永遠のいのちを得たいと願うなら、「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」、「そのうえで、わたしについて来なさい」と。
 そのことばを通してイエス様は、良い行いである人間の努力、自力で永遠のいのちを得るのではなく、イエス様が「良い方」と言われた、神様と共に歩む道を求めるように青年を導かれたのでした。しかし青年は、イエス様のみこころを理解することができませんでした。

22ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 彼は、「悲しんで去って行った」のでした。彼は、捨てることのできないほどの、たくさんの財産を持っていたのです。

■青年が永遠のいのちを得るためには

 青年は、そのような教えを守っています、と胸を張って答えました。しかし、イエス様は戒めに新しい解釈をなさっていたのでした。殺してはいけないは、心でその人を憎むことも含むのです。姦淫してはならないは、心に欲情をいだくこともそうでした。青年は、外面だけではなく、内面をも、その戒めが支配していることを知らなかったのでした。
 イエス様を前にして、神の子に出会いながら、そのまなざしに出会いながら、青年は、このお方の中に永遠のいのちの答えがあることを理解できなかったのでした。彼は去って行きました。彼は、イエス様に出会ったのに、背を向けてしまったのでした。彼はどうすればよかったでしょうか。
 青年が望んだ永遠のいのちを得るために必要なことは、イエス様の愛を知って、それにゆだねることだったのでした。そうすれば、永遠のいのちを得ることができました。それは死後に与えられる文字どおりの永遠のいのちだけではなく、今すぐ彼のものに、神様を信じて歩むときに与えられる、この世での喜びのいのちを味わうことができたのでした。
 金持ちの青年は、イエス様にこう聞きました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」「私は何をしたらよいでしょうか。」
 青年の意気込みは、イエス様のひとことで、しぼんでしまいました。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」それはできませんでした。青年にはできなかったのです。
 先週、祝福を受けた子どもの話を見ました。イエス様は子どもたちのことをこう言われました。「天の御国はこのような者たちの国なのです。」
 信仰とは、自分で何かをしようとすることではない。神様の恵みを、受けるだけでよかったのでした。何でもできる、手を差し伸べておられる神様の手の中に、子どものように自分をゆだねてしまうことが信仰であり、救いなのです。
 イエス様が青年に求めたのは、自分の力で何かをすることをやめることでした。何もできない子どものようになって、イエス様のもとに行き、憩えばよかったのでした。ですから青年は、持ち物をすべて売り払うことができないこと、良い行いを守ることができていない自分に気づいたのですから、そのことをイエス様にお話しして、そのままイエス様を信じ、イエス様について行けばよかったのでした。イエス様は青年を愛し、その青年の思いを赦し、天の御国、永遠のいのちを与えてくださるからでした。

■十字架

 イエス様は、これからエルサレムで十字架につけられようとしていました。それは、この青年も、私たちも愛してくださり、これら人々の罪のために代わりに死んでくださるためでした。イエス様は、「イエス様、私にはそれができません。できない私を助けてください」と言う者をも愛してくださいます。
 イエス様は、私たち一人一人に、「わたしについて来なさい」と言われます。神様抜きで、自分の良い行いを歩もうとしている人たちのために、自分の力では、自分を救うことのできない私たちのために、十字架にかかって、私たちに救いの道を開いてくださいました。

ペテロの手紙第1、2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 私たちは、このイエス様に信頼して、これからも歩んで行く者となりたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年11月20日