ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年10月23日


2011年10月23日 主日礼拝説教
「心を一つにして」(マタイの福音書18章15節〜20節)

■はじめに

 イエス様は、天の御国ではだれが一番偉いのか。どのような人が偉いのかを最も近くにいた弟子たちに教えられました。イエス様が天に帰られたあと、イエス様によって救われた人たちが集められ教会が立てられていきます。その指導者となるのがペテロたちでした。
 イエス様の弟子たちは、子どものように自分を低くし、さらにこのような子どものひとりをイエス様の名のゆえに受け入れるようにと教えられました。また、そのような大切なひとりひとりにつまずきを与えないように、迷子になったら連れ戻すために探し出しなさい。これからあなたがたは、そのような働きをするようになると教えられたのでした。
 先週の最後は、14節「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」で結ばれました。今日は、イエス様はこの小さい者たちを守るために必要なことを教えられます。それら小さい者たちが罪を犯してしまうかもしれない。また、小さい者たちを守り、導く者たちがつまずきとなるものを置いてしまうかもしれない。この世のつまずきによって罪を犯してしまうかもしれない。イエス様は、そのような時に教会はどうしたらよいかを教えてくださったのでした。

■どのような罪も赦される

 どのような罪も神様は赦してくださるいます。それが聖書の教えであり、イエス様のみこころでした。

ヨハネの手紙第1、1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 しかし罪は、ほかの人をも巻き込んで起こることも、またその罪を認めず、罪を言い表すことをしない場合もあります。その時にどうするかが語られます。

■だれにも知られずに

15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

 この罪は他の人を巻き込み、つまずきを与える罪です。また教会のきよさを汚してしまう罪です。それは聖書の教えに反することを行い、あるいは教えようとしている罪です。
 まだそれが多くの人に知られていない時です。その罪のことを聞いたなら、それを公にするのでなく、またその罪を責めるのではなく、まずその人の所に行って話を聞き、悔い改める機会を与えなさいというのです。罪を他人に知らせることなく、その人の名誉を守り、その悔い改めに対して神様の赦しをいただくのです。
 そうすれば、「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」と言われるほど、それは新しい人を教会に迎え入れ、その人がイエス様の救いを信じ受け入れたと同じような喜ばしい結果になるというのです。
 それはこうも言われています。

ガラテヤ人への手紙6:1「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」

16もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

 ふたりの話し合いで聞き入れなかった時は、さらに「ひとりかふたりをいっしょに連れて」話を聞き、忠告します。それでも駄目な場合、聞き入れないならば初めて公になります。教会の問題として取り上げられることになります。

■教会にゆだねられる

17それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

 それでも聞き入れないなら、「異邦人か取税人のように扱いなさい」。それは、教会の交わりから断ち切りなさいということです。
 これは、イエス様の語ったこととしては厳しい教えのように聞こえます。イエス様こそ、異邦人、取税人のまことの友となったからです。しかしこれは、もう一度悔い改めて教会に立ち返ってくることを願う愛の戒めでした。当時の教えは、このような場合死刑を宣告されていました。

ヨハネの福音書8:4−5「4イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」」

 イエス様は、この女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言って罪を赦されたのでした。
 パウロはコリント教会に、教会の交わりから離れていった人たちに悔い改めと救いの機会は残されていることを語りました。

コリント人への手紙第1、5:5「5このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」

コリントへの手紙第2、2:6−7「6その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、7あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」

 教会がこのようなことを行うことができるのは、イエス様から「天の御国へのかぎ」を授けられたからでした。

18まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

■イエス様の十字架

 なぜそのような思いをもって接するのかというと、それはイエス様の十字架のゆえです。イエス様は十字架にかかられた時このように祈られました。

ルカの福音書23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 イエス様の十字架の死は、私たちひとりひとりのためであったのでした。何もわからない、イエス様のことを何も知らないで歩んでいる、いや歩んでいた人たちのために、すでに2000年前にイエス様はその人たちの罪を赦してくださるために、代わりにその罪のさばきを負って十字架にかかってくださったのでした。
 そのことを信じる人に神様は永遠のいのちを与えてくださるのです。それはいつまでも続くいのちですが、またこの世にあっては喜びと、祝福された豊かな人生を歩むことができるという約束です。

■心を一つにして祈る

 イエス様は、そのように罪を犯した兄弟をもう一度得るために、心を一つにして祈るように勧められました。

19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 このような問題に直面した教会は、その解決を主の導きにゆだねて祈るならば、その解決を示してくださるのです。祈りを「かなえてくださる」のです。「心を一つにして」は、イエス様によって導かれイエス様の御名によって祈ることです。心を一つにして「アーメン」(それは、まことに、そのとおりです、私もそのように祈りますという意味)と心を合わせて祈ることです。
 このみことばは、罪を犯した兄弟が悔い改め、交わりに戻ってくるように祈るようにと教えていますが、教会で共に祈ることのすばらしさ、教会の交わりの祝福を教えています。
 またクリスチャンは決してひとりではない。またひとりでいてはいけないことを教えています。共にみことばを読み、みことばに聞き、祈り合うところが教会であり、クリスチャンのあるべき姿です。そこには「わたしもその中にいる」と言われたように、イエス様がいてくださり、そのような祈りの時に、一番身近にイエス様にお会いできるのです。
 私たちの教会は、他の教会が行っている「祈祷会」(それは水曜日、木曜日の夜行われることが多いのですが)と呼ばれる集会をもっていません。私たちは平日にきらきら会を行っています。それは文字どおり「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる」集まりです。そのような中で、ゆりのきキリスト教会に共に集い、祈り合う喜びと神様の祝福を求めて歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年10月23日