ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年7月10日


2011年7月10日 主日礼拝説教
「不思議な力はどこから」(マタイの福音書13章53節〜58節)

■はじめに

 13章には天の御国についてたとえ話が8つありました。先週でそのたとえ話集が終わり、新しい段落に入っていきます。
 13章に入るまでの11章、12章を思い出してみると、そこにはイエス様に出会った人たちがイエス様をどう思ったかが語られていました。牢獄からイエス様が確かに救い主なのかと弟子を使って聞いてきたバプテスマのヨハネ、またイエス様や弟子たちが安息日にしてはならないと言われてきたことを破ってしまった。それはイエス様が神の子であることを表すことであったのですが、それに異を唱えた律法学者やパリサイ人たち。また彼らは、悪霊を追い出しているイエス様に、それは悪霊のかしら、ベルゼブルによるものと断じたのでした。12章の最後にはイエス様を呼び戻そうとした家族も出てきました。
 今日の箇所は、イエス様に出会った郷里の人たちがイエス様に対してどのような態度をとったかが語られます。

■イエス様はナザレで30年間生活された

 イエス様は30歳になった時ナザレの家から出られ、バプテスマのヨハネのところに行かれました。ヨハネはヨルダン川で、悔い改めの説教と悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていました。イエス様はそこで洗礼を受けられ、次に悪魔に誘惑に会われ、それに勝利されました。その後まもなくして故郷ナザレに帰り、安息日に会堂でお話しされました。そのことがルカの福音書に出ています。

ルカの福音書4:16「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」

 その時、イエス様はナザレの人たちに受け入れてもらえませんでした。イエス様はそこを去り、ガリラヤ湖畔にあったカペナウムを拠点として活動されました。そこに家族の人たちが尋ねてくることはあっても、イエス様ご自身は故郷に帰ることはなさいませんでした。

■2度目のナザレ訪問

53これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。

 イエス様は弟子をつれて再び郷里のナザレに向かいました。ルカの福音書4章の時から少なくとも1年以上たっていたと考えられます。ナザレに帰ったイエス様は、安息日にナザレの会堂で教えられました。

54それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。

 イエス様は、会堂で聖書からお話をしました。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう」とあるように、いくつかの奇蹟を行ったと思われます。
 ナザレの人たちのイエス様に対する評価と驚きは、このような知恵と力はどこから得たのだろうかというものでした。彼らは、イエス様がどのようにして、どこからそれを受けたのかという問題の答えを得ようとしましたが、イエス様の知恵や力が自分にとってどういう意味があるかを考えようとしませんでした。
 ナザレの人たちは、イエス様のことを考える時に、自分の常識や知識の範囲を超えることができませんでした。彼らは、イエス様の生い立ちと切り離してイエス様ご自身を見ることができなかったのでした。それでナザレの人たちはこう言いました。

55この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。56妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

 ナザレから、また大工から偉大な宗教的指導者は出るはずはないと考えてしまいました。ナザレの人たちは、イエス様の知恵と力あるわざを認めましたが、イエス様を救い主と認めることができず、イエス様は自分たちの仲間の一人であるとしてしまったのでした。
 彼らはイエス様の家族、母親の「マリヤ」、4人の弟「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」、そのほか妹たちを知っていました。ナザレの人たちは、イエス様の説教も聞き、その行うみわざも見ました。しかし彼らは、イエス様が救い主であることを否定し、受け入れることができませんでした。
 彼らは自分の経験、自分の知識、常識でイエス様を見ようとして「つまずいた」のでした。

57こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」

 ナザレの人たちは、イエス様と父なる神様が一つであることを理解できなかったのでした。イエス様は行く先々で多くの人に囲まれ、教えと奇蹟を行っていました。しかしナザレの人たちにとって、いつまでもイエス様はヨセフ家の長男でしかなかったのでした。

■信仰によって人が変えられる

 イエス様は、このナザレに来る前、信仰の大切さ、信仰によって人が変えられることを弟子たちに教えてきました。百人隊長に対しては……。

マタイの福音書8:10「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

 中風の人と彼を連れてきた友人に対しては……。

マタイの福音書9:2「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」

 長血の女に対しては……。

マタイの福音書9:22「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」

 二人の盲人に対しては……。

マタイの福音書9:29「イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。」

 信仰をもってイエス様に近づく時、イエス様は祝福を与えてくださいました。しかしそうできなかった人たち、信じることができなかった人たちもいました。今日のナザレの人たち、イエス様の家族もそうでした。イエス様を神の子と認めないイスラエルの指導者たち。さらに、このあとイエス様について来ていた多くの群集もイエス様につまずいてしまうのです。

■十字架につまずいた弟子たちが変えられる

 最後にはイエス様が神の子と信じたペテロたちも、イエス様の十字架を前にしてつまずいてしまいます。しかし弟子たちは、そしてイエス様の家族は、イエス様の復活を見て、イエス様が「神の子」救い主であるという信仰に立ち返ったのでした。
 後にイエス様の弟子となったパウロも十字架につまずきました。パウロにとって、救い主があのようなみじめな死に方をするはずがなかったのでした。それは、自分の基準で自分の知識、自分が持っていた律法でイエス様を見てしまったからです。しかし、パウロも復活されたイエス様のお会いして、十字架こそ救いに至らせるものであることがわかったのでした。

コリント人への手紙第2、5:16「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」

 パウロは十字架のみに救いがあることを、その説教がつまずきになることを知りながら、それを信仰によって受け入れるように語り続けたのでした。

コリント人への手紙第1、1:23−25「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 ナザレ人が発した問い「こんな知恵と不思議な力をどこで得たのか」の答えは「神からのもの」でした。それは十字架の死と復活によって明らかになったのでした。
 イエス様の十字架の死は私たちの罪のためでした。そのことを信じれば私たちの罪が赦されます。そう見ることができる信仰が与えられた人は幸いです。私たちは、これからも十字架と復活された「神の子イエス・キリスト」を信じて歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年7月10日