ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年7月3日


2011年7月3日 主日礼拝説教
「網がいっぱいになる」(マタイの福音書13章47節〜52節)

■はじめに

 13章は、天国について教えたたとえ話を7つ集めた章でした。種がまかれた地面のたとえと解説、毒麦のたとえと解説、小さなからし種のたとえ、パン種のたとえのあと、先週は5つ目と6つ目の「畑に隠された宝のたとえ」と「良い真珠を捜している商人のたとえ」を見ました。
 天の御国は、今まで自分が持っていたものを全部売ってでも手にしたいすばらしいものでした。手にする方法は様々です。偶然のようにして見つけ出す人、熱心に捜し求めてやっと手にする人。みな喜びいさんでそれを自分のものにしました。手にしてみてさらにわかることは、その宝はますます輝き、その人にとってはただ一つのもの、今まで持っていたものはちりあくたのようであったと思えるほどすばらしいものでした。
 さて、今日は天の御国についての7つ目、最後になる「地引き網のたとえ」です。これは、2つ目にあった毒麦のたとえと似ています。どちらも良いものと悪いものが混じっていること、終わりの時により分けられ、悪いものは捨てられてしまうのです。

■地引き網のたとえ

47また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

 地引き網漁は、ガリラヤ湖で行われていた漁であったようです。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤ湖の漁師でした。彼らは舟を持っていて、湖の沖に出て漁をしました。魚は沖にたくさんいました。そのほか岸にいて魚をとる方法として地引き網漁がありました。舟が網を沖から浜にまで引いてきて魚を取るのです。
 地引き網漁は何をとろうという目的がありませんので、いろいろな魚が入ってしまいます。

48網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

 岸に引き上げ、何がとれたか調べ選別します。良いもの、食べられるものを器に入れ、悪いもの、食べられないものは捨てられてしまいます。
 何が食べられないか、ユダヤでは細かく決められていました。

レビ記11:10「海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。」

 「ひれやうろこのないもの」、具体的には、うなぎ、なまず、貝、かに、海老などがそうでした。
 毒麦のたとえでは、芽が出てきた時にそれが悪い毒麦であることがわかっていました。この世界に悪魔が種をまいて、神様に逆らう人たちを生み出していることが教会にわかるのでした。
 地引き網のたとえでは、引き上げるまで何が入っているのか、網を引いている者にはわかりません。悪いものが入ってしまうことも承知で網を降ろしているのでした。

■地引き網のたとえの解説

49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 「この世の終わり」とは、聖書ではイエス様の再臨、イエス様がもう一度この世界にいらっしゃる時のことを言います。その時に神様のさばき、信じた人と信じなかった人が分けられ、さばかれるのです。
 その時に選別するのは御使いです。毒麦のたとえでもこうありました。

マタイの福音書13:39「毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。」

 御使いが網の中から悪いものをえり分けて、火の燃える炉に投げ込むのです。
 毒麦のたとえでは、世界に悪魔が毒麦の種をまき続けていることを教えていました。地引き網のたとえは、悪魔が種をまいている世界に向かって、地引き網のようにイエス様の教えを伝えて行く。少しでも多くの魚が網の中に入るように、広く、深く、網を投げ入れ続けることを教えています。
 良い魚が入ってくるように、イエス様を信じる人を教会に迎え入れるために網を下ろし、網を引くのです。
 イエス様が十字架にかかってくださったのは、私たちの罪を赦してくださるためでした。イエス様が代わりに罪の刑罰を受けてくださいました。そのことを信じれば、天の御国に入ることができる。そう信じる人を見つけ出すために、あらゆる機会をとおして福音を伝えるのです。
 伝えた福音はどうなるのか、どのような人に届いたのかは終わりの時まで私たちはわからないし、また気にすることなく、そのまま網を引くのです。私たちがすることは、休むことなく網を引き続けることです。

伝道者の書11:1「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」

 伝えられた福音が、いつの日か良い魚として網の中に入ってくることを教えられ、励まされるみことばです。

コリント人への手紙第1、9:16「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」

 パウロが網を下ろし続けようとしている思いを知ることができるみことばです。さらにパウロは弟子のテモテにこう勧めました。

テモテへの手紙第2、4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 みことばを伝えること、地引き網という大きな網に追い込むこと、引き続けることが私たちの神様から託された務めです。

■弟子となった学者のたとえ

 イエス様は、ここまで天国について7つのたとえを語ってきました。最後に、弟子たちに質問されました。

51あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。

 弟子たちはこのように答えましたが、弟子たちは理解できたつもりでも、本当の意味はイエス様の十字架と復活を見ない限りよくわかっていなかったのでした。このあとも、しばしばわからないことをイエス様に尋ねてイエス様に教えていただくのでした。しかしイエス様は、弟子たちが理解し、天の御国を伝える者になることをたとえ話をもって話されました。

52そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 イエス様は弟子たちを「学者」であると言われました。イエス様は、弟子たちがイエス様の十字架と復活を見て、イエス様の教えたことが良くわかるようになることを言われたのでした。
 彼らは、天国について知っている学者です。倉から「新しい物でも古い物でも」取り出すことができます。いろいろなものを取り出すことができることを言っています。弟子たちはどのような状況にも、それに合ったふさわしい教えを取り出し、人々に語り、伝え、教えることができるのです。
 私たちは、地引き網の中に魚を入れるために地引き網を引き続けます。また、イエス様の教えを取り出し、教えることによっても、天の御国を見つけ出す人が起こされていくのです。
 そのようにして、私たちがすでに知った天の御国のすばらしさを多くの人にお知らせする人になりたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年7月3日