ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年4月17日


2011年4月17日 主日礼拝説教
「あなたがたを休ませてあげます」(マタイの福音書11章25節〜30節)

■はじめに

 11章は、牢獄にいたバプテスマのヨハネからの質問から始まりました。イエス様はヨハネについて、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」という最大限の賛辞を送りました。
 そしてヨハネ以後、天の御国は激しく攻められている、奪い取られていると言われるほどの熱心さで、神の国に入ろうとする人たちが起こされていることをイエス様は語られました。
 そのような熱心さを示した人たちとは逆に、笛吹けど踊らず、だれも寄ってこなかったと言われるような人たちや町々がありました。イエス様はそれらの聞いても悔い改めなかった町々にさばきにあることを語りました。

■「幼子たち」に明らかにされる

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

 「これらのこと」とは天の御国の奥義のことです。今までイエス様が語ってきたことであり、これからなさろうとしている十字架のみわざであり、イエス様の復活です。イエス様は、これら天の御国の奥義を「賢い者や知恵のある者」には隠され、「幼子たち」には現されたと語ります。
 「賢い者や知恵のある者」とは当時の政治的・宗教的指導者です。なぜパリサイ人や律法学者は、またイエス様が責められた町々は、イエス様を目の前にしながら、イエス様が救い主であることを理解できなかったのでしょうか。それは父なる神様が「これらのことを、隠された」からでした。
 一方、天の御国の奥義を現された「幼子たち」とは乳飲み子のことで、何もわからない、親に頼るしかない者たちです。イエス様は幼子たちに現されたと言って、その幼子のことを自ら何もわからない、神様に頼るしかない人たちのことを言ったのでした。
 それは取税人であり、罪人と言われていた人たち、ツァラアトに冒された人たち、長血に苦しんでいた女でした。みな「疲れた人、重荷を負っている人」たちであり、またイエス様が「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われた人たちでした。
 神様は、そのような幼子のような者たちに神の国の奥義を示されました。なぜ賢い人には隠されて幼子にはわかるようになったのでしょうか。それは、そこに神様の主権、神様の選びがあったからでした。だれに、どのようにして、いつ奥義を示すのか。それは、神様のみこころの中にあることであり、神様の選びの中にある人たちに対して示されることでした。

コリント人への手紙第1、1:27−28「27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」

■父なる神と特別な関係にある

27すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 父なる神様の権威をイエス様ご自身が父なる神様から受けていました。イエス様と父なる神様はすべての知識を共有しており、また互いに知っているのです。イエス様が父なる神様を知らせなければ、人は父なる神様を知ることができません。イエス様のみこころによらないでは、だれも父なる神様を求めないし、神の国の奥義を理解することができず、神の御国に入ることもできないのです。
 イエス様は、父なる神様から「すべてのものが、渡されて」います。父なる神様のみこころと、主イエス様のみこころとは全く一つ、同じなのです。父なる神のみこころをすべて知っておられるイエス様を通して、私たちは父なる神様を知り、父なる神様のもとに行くことができるのです。

テモテへの手紙第1、2:5「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

■疲れている人、重荷を負っている人を招いておられる

28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 このことばは聖書の中で、イエス様を信じること、イエス様のもとに行くことがどんなに心安らかなことであるかを、最もよく教えているみことばです。
 主イエス様は、ご自身のみこころのままに救われる人を選ばれ、その選ばれた者たちは神様の奥義を理解し、神様の子としての特権、神の国に入る幸いを得るのです。そのために、イエス様はその人たちに呼び掛けておられるのです。
 イエス様は、すべての人に対して「わたしのもとに来なさい」と呼びかけておられます。
 「賢い者や知恵のある者」たち、イエス様の教えを拒んだ町々にも呼びかけられました。その呼びかけに答えた人たちが、「疲れた人、重荷を負っている人」たちでした。経済的なこと、人間関係、将来のこと、病のこと、家族のこと、仕事のこと、日々の思い煩いなど、そのような重荷に負わされ、苦しみ、疲れている人たちにイエス様は声をかけてくださいました。主イエス様のところに来たことが神様のみこころであったと後で知ることになるのですが、その人たちはイエス様の平安の中に入ることができるのです。
 イエス様は、イエス様のもとに来れば「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と約束してくださっています。そのようなことは、神様のみが与えることができるのです。

イザヤ書28:12「主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある」と仰せられた。」

29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 イエス様は「わたしのくびきを負いなさい」と言われました。くびきとは牛の首にかけて、車や、畑を耕す鋤を引かせる道具です。そのくびきに、しかも「わたしの」くびきを負いなさいとおっしゃいました。それはイエス様が「心優しく、へりくだっているから」でした
 「わたしのくびきを負う」とは、イエス様のもとに来て、イエス様の庇護のもと、イエス様の権威に服すことです。イエス様がすでにくびきを負っておられます。イエス様がすべての苦しみ、悩み、律法を守らなければならないという重荷を代わりに負って、歩いておられるのです。
 イエス様が共にそのくびきを負って私たち歩みを助けてくださり、重荷を軽くしてくださるのですが、イエス様とつながれるくびきはそれだけではありません。重荷を感じなくなり、イエス様と同じくびきにあることが幸い、喜びと思うようになるのです。
 イエス様のもとに行き、くびきを共に負う者は、即休ませていただけるのであり、憩わせていただけるのです。イエス様おひとりで、すべての重荷、罪を負ってくださったので、私たちが負うくびきは安息そのものなのです。
 イエス様は「わたしに学びなさい」と言われました。本来は、律法学者のもとに弟子入りして学ぶという意味です。イエス様の弟子になりなさいということです。すると、イエス様が「心優しく、へりくだっている」ことを知ることができ、私たちも、そのようにしだいに変えられていくのです。イエス様のもとに来る人だけが、父なる神様の御国に入ることができるのです。
 私たちは今日、「あなたがたを休ませてあげます」と言われているイエス様のもとに行き、イエス様と共にくびきを負うことができたことを感謝したいと思います。これからも、「わたしの荷は軽い」とおっしゃったイエスに従っていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年4月17日