ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年3月27日


2011年3月27日 主日礼拝説教
「おいでになるお方はあなたですか」(マタイの福音書11章1節〜6節)

■はじめに

 10章全体で、福音宣教を伝える時の注意事項などが語られました。その働きにつく人たちだけではなく、伝えられたことばを聞いて神の国の一員、神の家族となった人たちにも、働き人と同じような困難・苦難があるかもしれないが、その働き人を助けて、福音宣教を共に担い、共に働いていくようにと勧められました。
 そのためには、働き人が起こされるように祈ること、そして、そのような働き人に、水一杯でも飲ませてあげることが宣教を助けることになり、またそのささげ物には報いが与えられることが教えられました。

■鍵のことば

 イエス様は弟子たちへの話を終え、弟子たちを派遣し、ご自身も伝道の旅に出て行かれました。

1イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

 この句は、マタイの福音書に特有の、話題が変わることを示す鍵のことばになっています。これまでに出てきたことばです。

マタイの福音書4:23「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」

 このあと5章から9章まで、山上の説教と10の奇蹟が語られました。

マタイの福音書9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」

 ここからイエス様は、イエス様の教えを伝える働き人について語りました。
 さて、11章から新しい段落に入ります。ここからは、イエス様の教えが伝えられていくことによって、人々がどのような反応を示したのか。そのような中からイエス様とはどういうお方か、何をなさろうとしているのかが明らかになっていきます。その前に、イエス様を受け入れることができなかった人たち、イエス様に対して疑問を持った人たち、イエス様につまずいた人たちのことが語られていきます。

■バプテスマのヨハネからの質問

 まずバプテスマのヨハネから、イエス様が本当に待ち望んでいた救い主なのかどうか質問されました。ヨハネは、今になってイエス様に対して戸惑いを感じたのでした。

2さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、3イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 この時バプテスマのヨハネは、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスの罪、「兄弟の妻であったヘロデヤを離婚させ、自分の妻とした」ことを指弾したため、牢に入れられていました。

マタイの福音書4:12「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。」

 ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていた時に、イエス様を見て、この方こそ私たちが待っていた救い主・キリストであると人々に、そして自分の弟子たちに紹介しました。

ヨハネの福音書1:29−30「29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。」

 その後ヨハネは捕らえられ、牢獄にいて、はたしてイエス様が自分の指し示した救い主なのかどうか、聞こえてくる情報によって判断しようとしました。
 ヨハネは、人々に激しく悔い改めを迫る説教をしました。

マタイの福音書3:10「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 ヨハネは、罪を悔い改めなければさばきが下される。そのような救い主がやってくる。だから悔い改めてバプテスマを受けなさいと語ってきました。
 ヨハネは、自分が指し示したイエス様が確かに救い主キリストであることは、神様からの啓示もあったでしょう、それを疑うわけではありませんでした。が、実際には罪を犯し、自分を牢に閉じ込めたヘロデはどうなのか。また相変わらず、罪の中に暮らす者たちに何の鉄槌も下さないのか。イエス様はさばきを行わないで、罪人の友となり、あわれみの心をもって接している。律法に禁じられていた人たちと食事をしたり、清めのために手を洗うという行為を行わなかったり、断食も守っていないではないか。
 そのような疑問の中、ヨハネは弟子を遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と聞いたのでした。

■イエス様の答え

4イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。5目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

 イエス様はただ、いま自分が行っていることをそのままヨハネに伝えるようにと答えたのでした。
 質問してきたヨハネの弟子たちに、ご自分はイザヤが預言した救い主キリストと同じことを行っている。それを伝えることによって、ご自分が神から遣わされた救い主キリストであることを示そうとしました。

イザヤ書35:5−6「5そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。6そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」

 ヨハネも、イエス様の行っていたみわざをとおして、イエス様が救い主キリストであることを知らなければなりませんでした。
 信仰とは、イエス様が行ったことに対する応答です。盲人の目を開けてくださるイエス様、歩けない人に「立って歩きなさい」と言ってくださるイエス様、ツァラアトにふれてきよめてくださるイエス様、そして、十字架にかかってくださったイエス様、それが私たちの罪の身代わりであったこと、3日目に復活されたこと、イエス様が神の子としてこの地上で行ってくださったわざを知識ではなく、事実として受け入れることです。
 ヨハネが期待したさばきは、イエス様が来られた時に実現するのではなかったのでした。イエス様が来られた目的は、まず罪人を救い出すためでした。さばきは、イエス様がもう一度この世にやってくる終わりの日に起こることだったのでした。
 今はすべての人が救われることが神様のみこころでした。

ペテロへの手紙第2、3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 ヨハネは、ヨハネの弟子たちからの報告を聞いて、イエス様が救い主であったことを信じ、喜んだでしょう。イエス様が今なそうとしていること、まず救いが語られていることに感謝したでしょう。

■つまずかない者は幸いです

6だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 ヨハネはイエス様につまずいてしまいました。自分の知識、自分の常識で、この方は違うのではないかと。しかしヨハネは、イエス様のことばによって、イエス様が行っていたみわざを信じることができました。ヨハネは自分では見ることができなかったけれども、獄中でイエス様が救い主であることを信じることができたのでした。
 パウロがギリシヤのアテネで伝道した時のことです。アテネの伝道で、偏見をもって聞いた人たち、復活などあるはずがないと思って聞いていた人たちは、どうしてもパウロのことばを信じることができなかったのでした。

使徒の働き17:32−34「32死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。33こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」

 アテネの人たちは、偏見によって、自分たちの経験、常識にとらわれて、つまずいてしまったのでした。
 私たちも、今日、イエス様がなさったみわざを信じることができたことを感謝し、これからも共に歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年3月27日