ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年12月19日


2010年12月19日 主日礼拝説教
「風や湖もキリストに従う」(マタイの福音書8章23節〜27節)

■はじめに

 8章から始まりました10の奇蹟のうち、すでに3つを見、先週は、「主イエスに従う」ことに触れました。今日の箇所からまた3つの奇蹟が続けて語られます。

■ガリラヤ湖の嵐

23イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。24すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。

 イエス様たち一行は、舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸、ガラダ人の地に渡ろうとされました。その船旅の途中、嵐が襲ってきました。ガリラヤ湖は、周囲の山から吹き下ろす激しい風のため、突然の嵐に襲われることがありました。
 「舟は大波をかぶり」ました。直訳は、「波によっておおわれた」です。舟よりも高い、視界がさえぎられるような波が襲いかかったのでした。イエス様は、その日の伝道活動でお疲れであったのか、何もなかったかのように眠っておられました。

25弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」

 弟子たちは、舟が沈むかもしれない。おぼれて死ぬかもしれないと思いました。12弟子のうち、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、ガリラヤ湖で育った漁師でした。この湖のことなら小さいころから知りつくしていた彼らでした。それでも弟子たちは恐ろしくなって、眠っているイエス様に「起きてください、助けてください」と願いました。
 今まで、彼らはイエス様が行ったたくさんの奇蹟を見ていました。しかし、それらはみな、自分のことではありませんでした。彼らは、イエス様の力をだれよりも知っていたのですが、現実に自分に問題が直面した時に、イエス様がいてくださるから大丈夫と思うことができませんでした。
 私たちもそうかもしれません。何かがあると、神様がいてくださることを忘れてしまい、うろたえてしまうのです。

■風と湖をしかりつける

 弟子たちは、初めて自分の身に危険が迫るという事態に直面し、イエス様に「私たちはおぼれそうです」と声を上げました。

26イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。27人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 弟子たちは、イエス様が起き上がって風をしかりつけられると大なぎになったのを見た時、イエス様が自然を従わせてしまうお方であり、生きると死ぬとを支配しておられる神であることを知りました。このお方は疲れて寝てしまわれる私たちと同じ弱さを持つ人間であるけれども、なんとこのお方は自然を従わせてしまうお方なのだと。
 イエス様は弟子たちに、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われました。足もとは大きく揺れ動き、弟子たちは不安でいっぱいになりました。弟子たちは、イエス様がいっしょにいてくださるなら、必ず向こう岸へ着けるということがわからなくなっていたのでした。ゆうゆうとぐっすり眠っておられるイエス様を見て、ああこの舟は大丈夫だと思ってもよかったのでした。
 私たちも、嵐に見舞われ、恐ろしさと不安でいっぱいになった時、私たちには十字架の愛をもって、いのちがけで愛してくださったイエス様がいつもそばにいてくださることを忘れてしまうことがあります。イエス様は、「助けてください」と言う私たちの声に答えて起き上がり、その嵐を静めてくださいます。
 イエス様が、私たち一人一人と共にいてくださり、必ず助けてくださいます。どんな嵐の中でも、イエス様がいっしょに舟に乗っていてくださることを信じて、一歩一歩進んで行きましょう。

■このお方はどういうお方か

 弟子たちはイエス様のなさったことを見て、「いったいこの方はどういう方なのだろう」と問いかけて、この段落は終わっています。それは、弟子たち自身の疑問のことばであり、また私たち聖書を読む者たちへ、「このお方がどういうお方かわかりますか」と問いかけていることばでもあるのです。
 嵐を静められ、自然を治められるお方は神様であることを、弟子たちは旧約聖書をとおして知っていました。

詩篇89:8−9「8万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。9あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。」

 病をいやされるだけではない、自然をも治めてしまう。それは自然を造り、自然を支えておられる神様にしかなしえないことでした。舟に乗っていた弟子たちは、そのことを知ったのでした。
 その神様の御子であられるイエス様が、2010数年前、ローマ皇帝がアウグストであった時代、人の子としてお生まれくださったのでした。きょうはクリスマスの日を迎えました。
 大自然を創造され、嵐を静められる神様が、まことに弱く、貧しく、時の権力者によって簡単にいのちを奪われてしまうかもしれない。そのような人間の子どもとして、何の防備もない家畜小屋で、何の美しさ、輝きもない飼い葉おけに寝かされたのでした。しかし、それも神様の導き、神様のご計画でした。
 イエス様は、天において、神の子として、罪のないお方としての輝きを持っておられましたが、こうしてお生まれになることによって、人間の、罪のけがれ、人間の弱さをご自身の身に負われたのでした。イエス様は十字架に至る苦難の生涯を送るため、誕生の時から、このような低いところに生まれてくださったのです。
 その十字架による死は、イエス様が犯した罪のためではありません。イエス様は、すべての人が犯した罪の刑罰を十字架で代わりに受けてくださったのでした。
 それは、すべての人の弱さ、悲しみ、苦悩、罪を知り、そこから救い出してくださるためでした。それによって私たちは、もう一度、新しく生きることができるようになったのです。
 その救いがクリスマスの出来事から始まりました。そのことをきょう覚えて、イエス様の誕生をお祝いしたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年12月19日