ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年2月7日


2010年2月7日 主日礼拝説教
「まことの神の子」(マルコの福音書15章33節〜39節)

■はじめに
 イエス様は午前9時に十字架につけられました。十字架の下で、兵士たちがイエス様の着物を分けるためにくじをひいていました。人々はイエス様をあざ笑いました。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」いっしょに十字架につけられた犯罪人もイエス様をののしりました。

■エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ

33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

 イエス様が十字架につけられて3時間たちました。あたりは暗くなり午後3時まで続きました。神のひとり子であられるイエス様が死に赴こうとしていました。暗闇は全世界の悲しみを現しているようでした。

34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 暗闇の中、真ん中に立つ十字架からアラム語で嘆きの叫びが上がりました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」これは詩篇22篇の冒頭のことばでした。この時、この詩篇はイエス様のお気持ちをよく表していました。助けを求めてもかなえられなかったイエス様の絶望的な叫び、イエス様の祈りでした。
 イエス様は、「わが父よ」とは呼びかけませんでした。イエス様の地上の歩みは、神のひとり子として父なる神様との親しい交わりの中にありました。イエス様は、その父と子の関係がこの時切り離されたことを、父なる神が遠くに行ってしまわれたことを感じられたのでした。
 イエス様は、生まれながらの罪も持たずに誕生されたお方でした。イエス様は、人として罪のない生涯を送られました。しかもそのお方は、神の御子であられ、神ご自身であられました。
 神様は、十字架にかかられたイエス様の上に、すべて人の罪を負わせました。イエス様はこの時初めて、人のすべての罪の重荷を背負って神様に見捨てられるという経験をなさいました。その叫び、苦しみが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。
 私たち人間は、皆罪を持って生まれてきました。罪とは、神様から離れて、自分勝手に生きようとすることです。私たちこそ罪のために神様から見捨てられて当然であるのに、イエス様が私たちの罪を負って、その罪によってさばかれる私たちに代わって、神様に見捨てられるという経験をしてくださったのです。

35そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

 イエス様が苦しみの中から叫んだことばを聞いた人々は、「エロイ、エロイ」ということばを理解できなかったのでしょう。それを、「エリヤを呼んでいる」と聞いて、長い棒のようなものの先に海綿を取り付け、酸っぱいぶどう酒を含ませ、イエス様に差し出しました。これは渇きをいやすためと、痛みを和らげ、正気にさせる効果がありました。「エリヤが助けにやって来るかもしれないから見ていよう」という、あざけりの思いをこめた兵士の行為でした。
 しかしエリヤはすでに来ていたのでした。バプテスマのヨハネでした。イエス様は、そのあとに来られた救い主であったのでした。

■息を引き取られる

37それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 イエス様は、大声をあげて息を引き取られました。

ヨハネの福音書」19:30「完了した。」

ルカの福音書23:46「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

 神様がご計画しておられたみわざ、人々の罪を代わりに負ってイエス様が死に、そのことによって人々に罪の赦しを与える。その神様のみわざを成し遂げて、父なる神様に霊をゆだね、息を引き取られたのでした。
 この時、神殿の幕が真っ二つに裂けました。弟子たちは、それがイエス様の十字架の死と同時刻であったことをあとで知り、十字架が罪の赦しをもたらしたことと、もう一つの意味があったことを教えられたのでした。
 この神殿の幕は年に一度、大祭司が動物のいけにえを携えて、民全体の罪の赦しを願い、神様に礼拝をささげるためにあけられる幕でした。この幕が破れたということは、イエス様を通して、ユダヤの人々だけではない。すべての人が、私たち一人ひとりが神様の前に出られる道が開かれたことを表していました。

■まことの神の子

39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 ここに十字架刑に立ち会い、兵士たちを指揮していたローマの百人隊長がいました。彼は、十字架にかかったイエス様を正面から見ていました。イエス様がしっかりと意識を保ったまま最期を迎えたのを見ました。すべてが終わったとき百人隊長は言いました。「この方はまことに神の子であった」と。
 マルコの福音書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始められました。マルコは、イエス様が神の子であることを、イエス様の奇蹟を通し、イエス様の説教を通して伝えてきました。そのお方が十字架にかかり、それを見たローマの百人隊長が「まことの神の子」と告白したのでした。そう告白をしたのは、マルコの福音書ではローマの百人隊長だけでした。ほかの2回(3:11,5:7)は、悪霊が滅ぼされることを拒んで叫んだことばでした。
 イエス様の生涯を見る時に、イエス様の十字架の前に立つ時にすべての人が「イエス様はまことに神の子である」と言うことができるのです。そのことをマルコは伝えたかったのでした。
 ヨハネもそう伝えています。

ヨハネの福音書20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 イエス様は神の子であられました。そのお方が私たちの罪を負い代わりに死んでくださいました。

ヨハネの手紙第1、4:15「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」

 イエス様を神の子と信じて、これからも歩みたいと思います。そして今日の聖餐式に臨みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年2月7日