ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月26日


2009年7月26日 主日礼拝説教
「永遠のいのちを受けるために」(マルコの福音書10章17節〜22節)

■はじめに
 10章からイエス様一行は、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれました。そこにパリサイ人がやって来て、離婚について論争し、続けてイエス様は、みもとにつれて来られた子どもたちを祝福されました。そしてイエス様がエルサレムへの道を進もうとされた時、ひとりの人がイエス様のもとにやって来ました。

■青年の問い

17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

 「ひとりの人」は、マタイの福音書によると「青年」(19:20)、ルカの福音書では「役人」(18:18)とあります。この人は、「青年で、役人で、しかも金持ちであった」のでした。
 彼は何不自由のない生活をしていました。何一つ、恥じることのない生活をしている模範的青年でした。しかし、この青年の心は今ひとつ晴れませんでした。彼には問い続けている問題がありました。青年は死を恐れていました。何不自由のない暮らしであっても、いえ、何不自由ないからこそ、死ぬことが恐ろしかったのです。全財産をもってしても死は避けられない。死んだら、自分はどうなるのだろう、と。
 そこで青年は、イエス様に走り寄って、御前にひざまずき疑問をぶつけました。彼は、心から尊敬する先生、律法の教師と信じて「尊い先生」と呼びかけました。

■イエス様の答え

18イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。

 イエス様は、何か言葉じりを捕らえているような感じです。イエス様は、「尊い」ということばを神に対する呼びかけであることを願ったのです。しかし、青年の思いはそうではありませんでした。しかも、その求めは「何をしたらよいか」でした。青年は、イエス様ご自身を求めてはいませんでした。青年は、何事かをなすことによって神の国、永遠のいのちを受けられると思っていました。
 そのことを青年に気づかせようと、イエス様はこうおっしゃいました。「その尊い神があなたに与えてくださった戒めならあなたもよく知っているはずです」と。

19戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

 これは、ユダヤ人が最も大事にしてきた十戒の一部です。青年にとっては、特に新しいことではありませんでした。

■青年の答え

20すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」

 この答えは当然でした。多くのユダヤ人はこのように答えることができました。小さいころから、そのようにしつけられているのです。役人ならばなおさら、まじめに、誠実に生きていました。まわりの人もそう思ったでしょう。しかし、そこに青年の悩みがありました。「自分は小さい時から忠実に律法を守って生きてきた。しかし永遠のいのちを受けるために、それだけでは、確信が持てないのです。もっと必要なものがあるのではないか。先生、教えてください。そうすれば、私はそれを実行します」とイエス様に問いかけたのです。

■持ち物をみな売って、わたしについて来なさい

21イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 イエス様は、青年を見つめ、「いつくしんで言われ」ました。直訳は、「彼を見つめ、愛した、そして、言った」です。
 イエス様はこの青年を愛してくださいました。しかし、青年はイエス様の愛に気づくことができませんでした。イエス様は青年の顔を見つめて、言われました。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」「そのうえで、わたしについて来なさい」と。

22すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

 彼は、「顔を曇らせ、悲しみながら」去って行きました。彼は「多くの財産を持っていたから」です。少しの財産であれば、処分するのに惜しくなかったかもしれません。彼は、捨てることのできないほどの、たくさんの財産を持っていたのです。
 私たちも、これだけはゆずれない、捨てられないものを持っているでしょう。何か、頼りにしているものがあるでしょう。今ひとつ、捨て切れないものです。それがこの青年には富でした。
 青年は、教えを守っていると胸を張って答えました。しかし、イエス様は戒めを新しく、「殺してはいけない」は心でその人を憎むことも含むのであり、「姦淫してはならない」は心に欲情をいだくこともそうであると教えられました。青年は、外面的な戒めではなく、内面をも戒めが支配していることを知らなかったのでした。
 イエス様を前にして、神の子に出会いながら、そのまなざしに出会いながら、青年は、このお方の中に救いが、永遠のいのちがあることを理解できなかったのでした。

■永遠のいのちと信仰
 彼は去って行きました。彼は、イエス様に背を向けてしまいました。彼はどうすればよかったでしょうか。青年が望んだ永遠のいのち、それを得るために必要なことは、イエス様の愛を知って、イエス様ににゆだねることでした。そうすれば、永遠のいのちは、それは死後に与えられる文字どおりの永遠のいのちだけではなく、今すぐ彼のものに、神様を信じて歩むときに与えられる、この世での喜びのいのちを味わうことができたのでした。
 金持ちの青年は、イエス様にこう聞きました。「先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」青年の意気込みは、イエス様のひとことで、しぼんでしまいました。「あなたの持ち物をみな売り払いなさい。」できませんでした。青年にはできなかったのです。それは 私たちも同じです。私たちも捨てることができないものを持っています。
 この青年の話の前に、祝福を受けた子どもの話が出てきます。イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 信仰とはイエス様に信頼し、イエス様に抱かれ、抱かれたままになることでした。自分で何かをしようとすることではありません。神様の腕の中で、神様の恵みの中にすべてをゆだねてしまうことです。何でもできる神様の手の中に、子どものように自分を全部明け渡してしまうこと、これが信仰であり、救いです。
 イエス様が青年に求めたのは、自分の力で何かをするということをやめることでした。何もできない、子どものようになって、イエス様に抱き上げていただけばよかったのです。
 青年は、持ち物をすべて売り払うことができないこと、それ以上に、十戒を守ることができていない自分に気づけばよかったのでした。イエス様は青年に「見つめ、愛された」のです。イエス様はエルサレムで十字架につけられることになります。それは、この青年も、私たちも愛してくださり、私たちの罪のために代わりに死んでくださるためでした。「イエス様、私にはそれができません。できない私を助けてください」と言う者をも愛してくださいます。
 これは私たちの生き方を変えます。どんな小さいことでも自分の力でできると思うな、と言われているのです。
 イエス様は、私たち一人一人に、「わたしについて来なさい」と言われます。自分の力では、自分を救うことのできない私たちのために、十字架にかかって、私たちに救いの道を開いてくださいました。

詩篇37:4−5「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

 このイエス様に信頼して、どこまでもついて行く者となりたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月26日