ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年4月5日


2009年4月5日 主日礼拝説教
「十字架のことば」(マルコの福音書15章33節〜41節)

■はじめに
 今週は受難週です。復活日から1週間前の日曜日、イエス様はろばに乗ってエルサレムに入城されました。月曜日から水曜日まで、エルサレム神殿境内でユダヤの指導者からの質問、何の権威によって行っているのか、カイザルに税金を納めるべきかどうか、復活はあるのか、一番大切な戒めは何か、などの質問に答えました。
 木曜日の夕方から最後の晩餐を弟子たちと共に過ごされました。そこで、聖餐式を世の終わりまで守るようにと制定されました。その晩餐が終わると、もう真夜中です。イエス様はゲツセマネでお祈りをされたあと、ユダヤの指導者たちから遣わされた兵士によって捕まり、そのまま裁判にかけられたのでした。

■十字架を背負って
 夜が明けると、金曜日の朝です。イエス様は縛られたまま、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れて行かれました。ピラトは、何度もイエス様に問いかけ、イエス様の答えを聞いてイエス様に何の罪もないことを認め、釈放しようとしました。しかし、群衆の「十字架につけろ」という叫びに負けて、イエス様を十字架につけるために祭司長、長老、律法学者たちに引き渡しました。
 イエス様は役人に引き渡された後、激しくむち打たれました。王のしるしとして紫の衣を着せられ、いばらで編んだ王冠をかぶせられました。ローマの兵士たちが取り囲んで、「ユダヤ人の王様、ばんざい」と叫び、頭をたたき、つばきをかけました。
 その後、イエス様は、十字架を背負って町を引き回され、都の外にあるゴルゴタという刑場まで歩かされました。途中、クレネ人シモンという人が、イエス様が背負っていた十字架を負わされました。イエス様は、前日からの6回に及んだ裁判により体力を失われ疲れておられたのです。

■十字架の上で
 イエス様は午前9時に十字架につけられました。兵士たちが、イエス様の着物を分けるためにくじをひいていました。人々はイエス様をあざ笑います。
 「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」(15:29-30)。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(15:31-32)。
 いっしょに十字架につけられた犯罪人も、イエス様をののしりました。

33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

 イエス様が十字架につけられて3時間たちました。あたりは暗くなり、それは午後3時まで続きました。

■わが神、わが神

34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 3時になった時、暗闇に立つ、真ん中の十字架から嘆きの叫びが上がりました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
 マルコの福音書では、イエス様が十字架で語られたおことばとして、この一言だけ記されています。ほかの福音書を読むと、イエス様は十字架にかかられてから息を引き取られるまで、7つのことばを語られています。
 この「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばは何だったのでしょうか。
 私たち人間は、皆、罪を持って生まれてきます。罪とは、神様から離れて自分勝手に生き、勝手に死のうとする性質です。神様は人を愛して、ひとりひとりをご自分のみもとに招きたいと願っていました。しかし、人はその罪のゆえに、だれひとり神のもとに行くことはできません。しかも、人間は自分の力ではどうしても、その罪を消し去ることはできないのです。
 それで旧約聖書の時代、人々はその罪を代わりに動物に負わせ、いけにえとすることによって、その罪を赦してもらいました。そのようにするようにと、神様はユダヤ民族を選び、律法を定めたのでした。そのことによって、神様は人々の罪を赦し、ご自分の民として迎えたのでした。
 しかし、それは、本当の救い主が現れるまでの方法でした。そのお方がイエス・キリストでした。
 イエス.キリストは、人として罪のない生涯を送られました。しかもそのお方は、神の御子であられ、神ご自身であられました。イエス様は、すべての人間の罪の罰を代わりに受けてくださったのです。神様は、十字架にかかられたイエス様の上に、人のすべての罪を負わせました。
 イエス様はこの十字架上で、人のすべての罪の重荷を背負って、人として神様に見捨てられるという初めての経験をなさいました。その叫び、苦しみが、この「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。
 私たちこそ、罪のために神様から見捨てられて当然であるのに、イエス様が私たちの罪を負って、私たちに代わって神様に見捨てられるという経験をしてくださったのです。

■イエス様の死
 イエス様が苦しみの中から叫んだことばを聞いた人々は、「エロイ、エロイ」ということばをはっきりと理解できなかったのでしょう。これは、詩篇22篇のことばでした。
 おそらくローマ兵士の一人でしょう。「エリヤを呼んでいる」と聞いて、長い棒のようなものの先に、海綿を取り付け、酸っぱいぶどう酒を含ませ、イエス様に差し出しました。これは、渇きをいやすためと、痛みを和らげ正気にさせる効果がありました。
 「エリヤが助けにやって来るかもしれないから見ていよう」という、あざけりの思いをこめた兵士の行為だったとも言えます。

37それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 イエス様は、大声をあげて息を引き取られました。この時、神殿の幕が真っ二つに裂けました。この幕は年に一度、大祭司が動物のいけにえを携えて、民全体の罪の赦し願い、神様に礼拝をささげるためにあけられる幕でした。この幕が破れたということは、いまや旧約の時代が終わり、イエス様を通して、ユダヤの民だけではない、すべての人が神様の前に出られる道が開かれたことを表していました。

39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 ここに、十字架刑に立ち会い、兵士たちを指揮していた、ローマの百人隊長がいました。一部始終を見ていた彼は、イエス様に対して「この方はまことに神の子」であったと認めました。彼は、十字架にかかったイエス様を正面から見ていました。イエス様がしっかりと意識を保ったまま、力の限り死と闘い、罪のないまま死んでいったのを見ました。すべてが終わったとき、百人隊長は言いました。「この方はまことに神の子であった。」これは百人隊長の信仰告白でした。

40また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。41イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

 この婦人たちは、ガリラヤにいたころからイエス様の弟子たちの中に加わり、イエス様に従い仕えてきました。彼女たちは、十字架上のイエス様の死を見守りました。さらに葬りに立ち会い、3日目の日曜日の明け方、イエス様の復活の最初の証人にもなるのです。

■ひとり子をお与えになったほどに

コリント人への手紙第2、5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

 神様は、ご自分のひとり子を十字架につけて私たちの罪を赦そうとされました。それほどまでに私たちを愛してくださったのです。

ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神様が罪人を見捨てられるのは、この十字架で終わりました。私たちが神に捨てられることはもうないのです。このことを信じることができた私たちは、本当に幸いです。この1週間、イエス様の十字架を覚えて、来週の喜びの復活日に備えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年4月5日