ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年1月11日


2009年1月11日 主日礼拝説教
「恵みが増し加えられる」(マルコの福音書4章21節〜25節)

■はじめに
 4章は、種をまく人のたとえから始まって、いくつかのたとえ話が続いています。今日は、あかりと量りのたとえです。この2つは、「みことばが実を結ぶ」たとえの続きと考えられます。

■あかりのたとえ

21また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。22隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 ここは2つのことが言われます。あかりを燭台の上に置くことと、隠されているものが明らかにされるということです。
 あかりは何を指しているのでしょうか。イエス様は、いま「みことばが実を結ぶ」というたとえ話を話しておられます。それでそのまま、あかりは「みことば、福音」と考えることができます。
 あかりは闇を輝かすものです。あかりを「枡の下や寝台の下に置く」ようなことはありえない、愚かしいこととイエス様は言われます。あかりを燭台の上に置くことは、闇の世界であるこの世にみことばの光を高くかかげて、世に輝きを与えるのです。

ピリピ人への手紙2:15−16「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 みことばを受けた者は、それをあかりのように高く掲げて輝かせるのです。あかりを「燭台の上に置く」ことはたいへんなことでしょうか。「よし、燭台の上に置くぞ」と気合いを入れたり決心しないと、燭台の上に置けないでしょうか。イエス様は、あかりを燭台の上に置くのは当り前、当然のことのようにおっしゃいました。
 本来、あかりとはそういうものです。神様が私たちにみことばを与えてくださり、恵みを与えてくださいました。私たちがイエス様を救い主と信じた時から、私たちがイエス様に従っていこうと決心し信じた時から、神様は私たちを燭台の上に置いてくださったのです。
 「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」そのように、イエス様は私たちを燭台の上に置いてくださいました。ですから私たちは、いま意識するしないにかかわらず、当然のように燭台の上で光輝いているのです。
 その明るさに、個人差、賜物の違いはあるかもしれません。それでも、私たちが燭台の上に置かれたことを、そこからみことばが輝いていることを感謝したちと思います。

■隠されているもの

22隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 今「隠れて」いるものがあります。それは、「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです』」(4:11)とある、「神の奥義」です。
 「奥義」は、それが明らかにされるまでは秘めておくものです。イエス様が言われた「神の国の奥義」とは、どういうものだったでしょうか。「神の国の奥義」とは、イエス様ご自身でした。
 神の御子イエス様は、人の姿となってこの世に来られました。そしてイエス様は、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それによって、神の御国への道、救いの道を開いてくださいました。
 しかしこれは、この時点では隠されていました。イエス様の十字架と復活の後に明らかにされたのです。テモテの手紙にこうあります。これは、当時の讃美歌、クリスチャンたちの信仰告白でした。

テモテへの手紙第1、3:16「3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」

 この奥義が明らかにされ、私たちに伝えられてきたのです。

エペソ人への手紙3:5−9「この奥義は、今(新約時代)は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代(旧約時代)には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。私(パウロ)は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。」

 このように、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦されるという福音、奥義は明らかにされ、それが使徒たちによって、パウロによって、そして、そのあとを続く福音を伝える人たちによって伝えられていったのでした。

■量りで量る
 2つ目のたとえは、「量る量りで量り与えられる」ということです。

24また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。25持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 このたとえは、別の箇所でさばくことについて使われています。

マタイの福音書7:1−2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

 他人をさばくそのさばきの程度に応じて、さばいている本人もさばかれるという意味です。しかしここでは、違った意味で使われています。
 これは、みことばについてのたとえなので、まず「聞いていることによく注意しなさい」と、みことばを注意深く聞くように言われます。
 みことばを量るとは、みことばの意味、恵みを人に分け与えることです。みことばを聞いて、みことばを人々に分かちあう。すると「自分にも量り与えられる」のです。私たちにも、同じみことばの恵み祝福が与えられ、帰ってくるのです。
 それだけではありません。「さらにその上に増し加えられます。」なお恵みが、祝福が増し加えられて与えられるというのです。
 みことばを人に分かち合う時に、多くの恵みが与えられます。私たちは、うまずたゆまずみことばを読み、それを人に与える時、神様からの恵みが「さらにその上に増し加えられる」というのです。それがイエス様の約束です。

25持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

 私たちは、みことばによる恵み、みことばによる喜びを持っているかどうか、イエス様から問われています。みことばによる恵みを知っている者、それを人々に分け与える時、さらにその理解が深まり、みことばから恵みが与えられるのです。
 それが、教会の交わりの中心となるようにと聖書は言っています。

コロサイ人への手紙3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 私たちは、「キリストのことば(みことば)を、私たちのうちに豊かに住まわせる」こと、みことばを私たちのうちに蓄えること、そして、教会の交わりの中で、みことばを「互いに教え、互いに戒め」ること、みことばを分かち合うようにと勧められています。
 私たちは、みことばからの恵みをいただいて日々の信仰生活、教会生活を歩みたいと思います。

詩篇119:14−16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年1月11日