ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年7月6日


2008年7月6日 主日礼拝説教
「罪のないお方が十字架に」(ルカの福音書23章13節〜25節)

■はじめに
 ユダヤ教の指導者たちはイエス様を捕らえ、裁判にかけました。自分を神の子としたイエス様を死罪にする判決が下されました。しかし、ユダヤ人には死刑を執行する権利がありませんでした。そこでイエス様を、当時ユダヤを支配していたローマの総督ピラトのもとに、ローマへの反逆罪ということで訴えました。
 ピラトはイエス様を調べた結果、「この人には何の罪も見つからない」と判断し、イエス様をガリラヤの領主であったヘロデのもとに送って、ヘロデの意見も聞こうとしました。しかし、イエス様はヘロデに対しては何もおっしゃらず、またピラトのもとに送り返されました。今日は、その続きになります。

■ピラトの判決
 ヘロデのところからイエス様が送り返されたので、ピラトは判決を下します。

13ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、14こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。15ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。16だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 「懲らしめる」とは、むち打ちの刑のことです。ピラトの判定は「罪はない」ということでしたが、そのまま釈放したのではユダヤ教の指導者たちから反感を買うことになります。それで、イエス様をむちで打って、それから釈放すると告げたのです。
 死刑を望む人々を納得させようとするのですから、かなり厳しいむち打ちをしようとしていたことが想像されます。むちは、先に金属片や鉛の塊がついていて、肉を裂くような恐ろしい道具でした。ローマ人に課すことは許されていなかったむごい刑です。
 しかしユダヤ教指導者は、それでは納得しませんでした。何としてもイエス様を死刑にしたかったのです。
 ピラトはユダヤ人の支持を得なければなりませんでした。ユダヤ人は、総督が気に入らないと、その者を罷免するように皇帝に訴えるからでした。

■イエス様を釈放したかったピラト
 ピラトは、ユダヤ教指導者たちがねたみからイエス様を引き渡したことに気づいていました(マルコ15:10)。そこでピラトは次に、ユダヤ教指導者ではなく民衆の声を聞こうとしました。イエス様は一般の民衆に人気がありました。1週間前にイエス様がエルサレムに入城した時は、ユダヤ教指導者たちの機嫌が悪くなるほど、民衆は喜び、「ホサナ、ホサナ」と歌ってイエス様を歓迎しました。だから、民衆ならイエス様の釈放を支持するだろうと考えたのです。

18しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」19バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。

 ここで唐突のように「バラバ」という名前が出てきます。この個所では17節が抜けています。17節は、最も古い有力な聖書写本では省かれているので、ルカが書かなかった文章と思われますが、つながりをわからせるために、他の福音書を参考にして、後でだれかが書き加えたと思われる節です。新改訳聖書欄外にそれが記されています。

17節欄外注「さて、ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった。」

 ピラトは、過越の祭りの時に、恩赦を与えていました。暴動と人殺しの罪で牢に入っていたバラバかイエスのどちらかを釈放しようと提案します。しかし民衆の声は、ピラトの考えに反して、「イエスではなくバラバを釈放しろ」と叫ぶのでした。それは、「祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた」からでした(マルコ15:11)。
 しかしピラトは、なおもイエス様を釈放したいと思い、もう1度呼びかけました。ピラトがこのように、釈放にこだわったのには、イエス様の無罪を確信したことと、もうひとつ理由がありました。

マタイの福音書27:19「また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」」

 このような、ピラトの妻からのことづてがあり、ピラトは自分の良心と妻の助言、そして民衆の声との板ばさみになりました。

■民衆の叫び

21しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。

 民衆の叫び声はやまず、「十字架につけろ」ということばに変わりました。その日、3人の犯罪人の十字架刑が予定されていたのでしょう。そのひとりがバラバであったと思われます。しかし、ピラトはあくまでも職務に忠実たらんとし、3度目に言います。

22しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 しかし、民衆の声はますます大きく、熱狂的になっていきました。
 彼らは、もう自分たちが何を言っているのかわからなくなっていました。十字架刑が大衆の見世物、娯楽になっていた時代です。彼らにとって、もはやだれが十字架にかかろうと問題ではありませんでした。もちろん中にはイエス様の弟子たちをはじめ、イエス様の釈放を願う民衆もいたでしょう。しかし、十字架を叫ぶ圧倒的な声に、すべてはかき消され、ピラトは沈黙せざるをえなくなりました。

23ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。24ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。25すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 ここのところがマタイの福音書、ヨハネの福音書ではこのように書かれています。

マタイの福音書27:23−25「だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」」

ヨハネの福音書19:12「ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」」

 ピラトは、イエス様を釈放すれば、カイザルに謀反を働いた者に味方することになるとまで脅され、ついに、彼らの声に屈しました。「自分たちで始末するがよい」と言って、イエス様をユダヤ人たちに引き渡し、バラバを釈放しました。

■ピラトの思いと民衆の声
 今日の箇所で印象的なのは、ピラトが繰り返し、3度も「イエスを釈放する」と言ったことです。それを彼らが拒んで、十字架につけるよう要求したことです。彼らとは、13節にある「祭司長たちと指導者たちと民衆」です。
 祭司長たちと指導者たちは、以前からイエス様を殺そうと狙っていました。しかし、ここに至って、民衆も扇動され、イエス様を除くことを願ったというのです。
 きよいもの、正しいものを拒否して、悪いほうを選んでしまう。知らず知らず悪いことに加担してしまう。そのようなことは、この民衆だけでなく、私たちだれもが経験してきたことではないでしょうか。

■罪の悔い改め
 イエス様を拒んだ民衆に対して、ペテロは後に、このように言いました。

使徒の働き3:17「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。」

 イエス様はそのことをご存じでした。イエス様はご自分を十字架にかけた人々のために、こう祈られました。

ルカの福音書23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」」

 何もわからずに聖なるものを拒み、悪いもの汚れたものに傾いていってしまう私たちをイエス様は赦してくださいました。イエス様は、すべての人を赦すために、すべての人の罪を負って、代わりに十字架にかかってくださったのでした。これが罪に汚れてしまった私たちを救ってくださる神様のご計画でした。イエス様を憎んだユダヤ教指導者たち、責任を回避したピラト、「十字架につけろ」と叫んだ民衆、釈放されたバラバ、これらすべての人々の背後にあって神様の救いの御手が働いていました。罪のないひとり子のイエス・キリストを十字架にかけて、私たちの罪を処罰してくださるというご計画が、ここに実現したのです。
 私たちのために、罪から救われる道が備えられました。

使徒の働き3:19「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」

 自分の罪に気がついて、赦されたいと思う人を、神様は喜んで迎え入れてくださいます。そしてイエス様の十字架によって私たちの罪をすっかり赦してくださいます。

詩篇32:5「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年7月6日