ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年6月22日


2008年6月22日 主日礼拝説教
「この人には何の罪も見つからない」(ルカの福音書23章1節〜12節)

■はじめに
 イエス様は、捕らえられてから6回の裁判を受けられます。これまで、大祭司のしゅうとであったアンナス、大祭司カヤパの家での裁判、夜が明けてからのユダヤ議会の裁判の3つを見てきました。そこでユダヤ教指導者たちは、イエス様が神の子を自称したとして「死に当たる」と判決を下しました。
 しかし、死刑の執行はローマ総督の権限に属していましたので、かってに行うことはできません。それで彼らは、イエス様をローマ総督ピラトのもとに送ります。それが4回目の裁判になります。そして、ちょうどエルサレムに来ていたガリラヤの国主ヘロデのところに送ったのが5回目の裁判、そして、またピラトのもとに送り返されるのが、最後の6回目の裁判です。
 きょうは4回目と5回目の裁判の様子を見てみましょう。

■ピラトの裁判
 4回目の裁判は、ローマの総督ピラトが行った1度目の裁判です。
 自らを神と称したという罪では、ローマ法では死刑になりませんので、ユダヤ議会はイエス様をローマへの反逆罪として訴えました。

1そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」

 「彼らは全員」で、ユダヤ議会全員の総意として、イエス様をピラトのところに連れて行ったのでした。彼らはイエス様を、「わが国民を惑わし」「カイザルに税金を納めることを禁じ」「自分は王キリストだと言っている」という3つの罪でピラトに引き渡しました。
 「わが国民を惑わし」とは、5節にあるように、ユダヤ人を扇動しローマへの忠誠心をゆがめたということでしょう。
 「カイザルに税金を納めることを禁じ」とは、彼らが以前、この問題でイエス様をわなにかけようとしたことがありました。彼らが「カイザルに税金を納めるべきでしょうか」と質問した時、イエス様は「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えられました。イエス様は税金を納めるようにとお答えになったはずでした。
 3つ目の「自分は王キリストだと言っている」とは、まさにそのとおりであり、その訴えは間違っていませんでした。しかし、イエス様がおっしゃっている「王キリスト」とはこの世の王ではなく、神の国のことをおっしゃったのでした。この訴えを受けてピラトは、イエス様に質問します。

3するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

 ピラトは「キリスト」ということばを抜いて、「ユダヤ人の王ですか」と質問しました。イエス様は「そのとおりです」と答えました。しかし、ここは原文では積極的に答えたわけではなく、直訳は「あなたが言っている」です。それは「あなたが判断すればいいことです」という感じの答えです。
 それ以上の尋問は書かれていませんが、ヨハネの福音書には、王国と王についてのやりとりが出ています。

ヨハネの福音書18:36−37「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 このようなやりとりのあと、ピラトは「祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない」」(4節)と宣言するのです。
 祭司長たちは、それに対し「そんなことはありません。この男はガリラヤからずっと、ユダヤ全土で人々を煽動し、惑わしてここエルサレムまで来たのです」(5節)と訴えます。
 それを聞いてピラトは、イエス様がガリラヤ出身であることを知りました。ピラト自身は、イエス様を無罪であると判断したのですが、すぐにはイエス様を釈放しませんでした。ユダヤ人の反乱を恐れたからです。それでピラトは、ガリラヤの国主ヘロデがそのころエルサレムに来ていたので、ヘロデのところにイエス様を送り、彼の意見も聞こうとしました。ヘロデが何かイエスに不利なことを言ってくれれば、イエス様を罪に定めても、自分の心は痛まない。ピラトの責任回避の姿勢が表れています。

■ヘロデ
 ガリラヤからエルサレムにやってきていたのは、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスです。ヘロデのエピソードで有名なものは、バプテスマのヨハネとの関係です。ヘロデは兄弟の妻であったヘロデヤと結婚したことで、バプテスマのヨハネから非難され、怒ったヘロデはヨハネを牢に入れました。そして、ある時、ヘロデヤの娘(サロメ)の踊りの褒美に、求められるままヨハネを殺し、その首を与えたのでした。

8ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

 ヘロデはイエスに会いたいと思っていました。それは、彼が首を切ったヨハネが生き返っているといううわさがあったからでした。

マタイの福音書14:1−2「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」」

 ヘロデの前に引き出されたイエス様は、ヘロデの質問には何もお答えになりませんでした。ヘロデがイエス様に会いたいというのは、イエス様の行う奇蹟を見たい、バプテスマのヨハネのうわさを確かめたいという、好奇心にすぎないからでした。それでヘロデは、イエス様から何も聞き出せず、ピラトのもとに送り返しました。

11ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

 このときのヘロデの判定はどうだったのでしょうか。ピラトがそのことを言っています。

ルカの福音書23:13−15「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。」

 ヘロデも、イエス様を「死罪に当たることは、何一つしていない」と判断したのでした。

■罪のないお方
 今日見ましたピラトとヘロデの尋問は、前の3回の裁判の判決とは違う結果となりました。ユダヤ教での裁判は、イエス様が神の子であることを否定しなかった罪をもって、死罪に当たると決定しました。しかし、今日のところでは、一貫してイエス様に罪が見つからなかったことを記しています。
 イエス様は、神の御子、キリストでした。これは前回の主題です。それと同時に、イエス様は人としても何の罪もありませんでした。これが今回の主題です。
 イエス様は人として罪を犯すことはありませんでした。イエス様にはユダヤ議会が訴えたような罪が何も見つからなかった、というばかりではありません。イエス様ご自身のうちに、もともと「罪の性質」というものが全くない、ということが驚くべき奇蹟なのです。それは、イエス様がお生まれになる前から、父なる神がこれを保証され、この地上で実際にイエス様に接した人々が証ししていることです。

ルカの福音書1:35「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
ペテロの手紙第1、2:22「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」
ヘブル人への手紙7:26「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」

 罪のないお方が十字架にかかろうとしているのです。罪のないお方が十字架にかかる。それは、罪のない神の御子が私たちの罪を代わりに負ってくださるためでした。

コリント人への手紙第2、5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

 私たちの罪を代わりに負ってくださったイエス様は、「神の御子」であると同時に、私たちと同じ肉の体を持つ「人」でもありました。普通の人であれば、普通の出生であれば、すべての人は、生まれながらにして罪の性質を持っています。そのゆえに、イエス様は、処女マリヤが聖霊によって身ごもるという奇蹟によってお生まれになられました。
 イエス・キリストは「神の御子」であり、同時に「罪の性質を持たない、きよい人」でありました。これは、聖書の大切な教えです。理性だけでは理解できず、信仰を与えられて初めて受け入れることのできる教えです。

ヘブル人への手紙4:15「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 イエス様は、罪を犯されませんでした(罪のないお方でした)が、十字架にかかって死なれました。すべての人が生まれつき持っている罪(原罪)のために滅びなければならないところを、イエス様が私たちの代わりに罪の刑罰を受けてくださり、私たちを滅びから救い出してくださいました。
 なぜ、これほどまでに、神様は私たちを救おうとしてくださるのでしょうか。神様は、罪に汚れてしまった私たちを深く愛しておられるからです。私たちが、自分の力ではこの罪の性質をどうすることもできないことを知っておられるからです。
 神の御子イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れる人は、すべての罪を赦されます。そして、神様が与えてくださる自由の喜びと、新しいいのちによって永遠に生かされていくのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年6月22日