ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年6月8日


2008年6月8日 主日礼拝説教
「ペテロを見つめる主イエス」(ルカの福音書22章54節〜62節)

■はじめに
 先回は、ユダの手引きによってイエス様が捕らえられたところまでを見ました。きょう読みますペテロの失敗は、4つの福音書のすべてに載っている出来事です。ペテロは十二使徒の筆頭であり、イエス様の伝道生涯の大切な場面では、いつもイエス様のおそばにつき従っていた愛弟子でした。そのペテロが、イエス様が捕まった時、逃げ出してしまった。それだけではない。ペテロはイエス様を知らないと3度も言ってしまったのです。それはペテロにとって、生涯忘れることのできない失敗でした。それをペテロは、イエス様の赦しと恵みとともに証しし続けたのです。

■大祭司の庭に入るペテロ
 さて、イエス様は捕らえられ、「大祭司の家に」連れて来られました。

54彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。55彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。

 ここは大祭司の家です。ヨハネの福音書を見ると、ペテロがこの大祭司の庭に入ることができたのは、イエス様の「もうひとりの弟子」が大祭司と知り合いであったからでした。

ヨハネの福音書18:16「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。」

 ほかの弟子たちはどうしたのでしょうか。

マルコの福音書14:50「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」

 ペテロも逃げたのですが、「遠く離れて」イエス様についてきました。大祭司の庭に入ると、たき火がたかれていました。過越の祭りの時期、3月末から4月上旬で、エルサレムの夜は寒かったのです。

ヨハネの福音書18:18「寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」

■ペテロの3回の否認

56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。

 最初は女中からの問いです。この女中は、ヨハネの福音書によると「門番のはしため」でした。「この人もイエスといっしょにいた」と言うのです。
 先に入った「もうひとりの弟子」は、そのことで何の支障もなかったので、ペテロがイエス様の弟子であっても、どうということもなかったかもしれません。ほんのささいな女中のからかい半分の問いかけであったかもしれません。ところがペテロは、恐ろしさからか、恥ずかしさか、簡単に「いいえ」と言ってしまったのです。
 2度目は男性からでした。

58しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います」と言った。

 ペテロは、イエス様の仲間であることを否定しました。このとき、マタイの福音書、マルコの福音書では、相手が「男」ではなく、「ほかの女中」であったりして多少記述が違っていますが、いずれにしろ再度否定した時には、誓いを立てて打ち消したとあります。

マタイの福音書26:72「それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。」

 最初の軽い否定がだんだんと抜き差しならなくなっていくのです。

59それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。

 2回目と3回目の間は「一時間ほど」たっていました。3度目は確信を持って言われます。ペテロのガリラヤなまりを証拠に出します。

マタイの福音書26:73「しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。」

60しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

 マタイの福音書では、ペテロが「のろいをかけて誓い始めた」と最も強い否定のことばを使っています。それといっしょに、ペテロがまだ言い終えないうちに鶏が鳴きました。

■主イエスのまなざし

61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。62彼は、外に出て、激しく泣いた。

 「主が振り向いてペテロを見つめられた」時、ペテロはイエス様のおことばを思い出しました。最後の晩餐の席上、ペテロがイエス様にどこまでも着いて行きますと言った時のイエス様のおことばです。

ルカの福音書22:33−34「シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」」

 自分は覚悟ができている、自分だけは大丈夫だと思っていたペテロ。しかし、思わぬところに落とし穴があったのでした。
 「主が振り向いてペテロを見つめられた。」
 これは、ルカの福音書だけにあることばです。イエス様は、ちょうどカヤパの尋問が終わり、引き出されたところだったでしょう。夜明けに、ユダヤ議会の正式な裁判が始まるのです。
 ペテロがサタンのふるいにかけられ、イエス様を否定してしまった。そのとき、「主が振り向いて」ペテロに注がれたそのまなざしは、愛と赦しのまなざしでした。それは、どこまでも、無限に赦してくださるイエス様の深いまなざしでした。ペテロは我に返り、自分の犯した罪に気がつき、外に出て激しく泣くのでした。「イエス様、ごめんなさい」と。ほんとうに赦していただける方から赦される。ペテロは、イエス様のまなざしからその経験をしたのでした。その時の情景を歌ったのが新聖歌221「ああ主のひとみ」2番です。

ああ主のひとみ まなざしよ 三度(みたび)わが主をいなみたる
弱きペテロを顧みて 赦すはたれぞ 主ならずや

■復活の主イエスに会うペテロ
 イエス様が十字架にかけられてから3日目の朝、エルサレムにいた弟子たちに、イエス様がよみがえられたというニュースが飛び込んできました。それは週の初めの日、日曜日の朝の出来事でした。イエス様のお墓に最初に行った女の弟子たちが知らせてきたのでした。その同じ日曜日の夜、弟子たちは復活したイエス様にお会いしました。ペテロは、以前と変わらないイエス様に接し、あの失敗が赦されたことを知ったでしょう。しかもペテロは、重ねて復活のイエス様とお会いし、イエス様への愛を口で告白して、新しくされるという経験をします。
 ガリラヤ湖のほとりで、復活されたイエス様がペテロたちの前に姿を現されました。このときは3度目の現れであったと、聖書にあります。
 イエス様はペテロに問いました。

ヨハネの福音書21:15「 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」」

 イエス様が同じことを3度問われます。ペテロも3度、「主よ、あなたを愛します」と答えました。ペテロはイエス様がペテロを見つめる温かいまなざしを見て、「私はあなたを愛します。それはあなたがご存じです。(私はあなたを知らないと3度も言ってしまいましたが、あなたはそれを赦してくださいました。)私はあなたを愛しているのです。」ペテロは、ありったけの思いをこめて答えたでしょう。
 イエス様はペテロに「わたしの小羊を飼いなさい」と新しい使命を与えてくださいました。ペテロに新しく生まれてくる教会を託されたのでした。
 ペテロは、復活されたイエス様にお会いして新しくされ、揺るがぬ確信を与えられました。それからは、どんな迫害、脅しにも屈せず、「主イエスはよみがえられた。私たちは、そのことの証人です。この方こそ、私たちを罪から救ってくださる救い主です」と証しし続けました。
 だれもが出会うであろう誘惑に簡単に負けてしまったペテロ。しかしペテロは、復活の主にお会いし、イエス様のよみがえりの証人として生涯を全うしました。弱いペテロやほかの弟子たちがどんな迫害にも屈しなかったのは、イエス様が事実よみがえられたからと言うほかありません。

■神様の目
 ペテロを見つめられた主イエスの目、またその御父であられる神様の目は、私たちひとりひとりにも注がれています。

イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 神様の目は、私たちへの愛と赦しのまなざしです。それは、私たちがどんなに罪深くても、変わることなく注がれる愛のまなざしです。私たちがどんなに失敗したと思っても、変わることなく注がれる赦しのまなざしです。その温かいまなざしは、私たちに罪への嘆きと悔い改めへの思いを起こさせます。そして私たちは、神様の温かいまなざしに見守られながら信仰へと導かれ、イエス様への告白へと導かれるのです。

ローマ人への手紙10:9−10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」


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