ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年3月30日


2008年3月30日 主日礼拝説教
「神のみこころに従う」(サムエル記第一24章)

■はじめに、21章から23章まで
 先回は20章を読みました。ヨナタンは、父サウル王のダビデに対する殺意が決定的であることがわかり、ダビデと契約を結び、無事逃したところまででした。
 サウルから逃れたダビデと、ダビデを追うサウル。その攻防が、31章でサウル王がペリシテとの戦いに敗れ、戦死するまで続いていきます。
 親友ヨナタンと別れたダビデは、まず祭司アヒメレクのところに逃れます。とりあえず、何か食べ物がほしかったのでした。アヒメレクもなぜダビデが少数の家来を連れてやってきたのか不思議に思いますが、「サウル王から急の命令だったので何も用意しないで出てきた」というダビデのことばを聞いて、アヒメレクは、そこにあったダビデが倒したゴリヤテの剣を渡し、また祭壇にささげられていた少しのパンを与えました。
 イエス様の弟子たちが安息日におなかがすいて麦畑の麦を食べたことをパリサイ人に非難されたとき、イエス様は、このダビデが祭壇のパンを食べたことを引いておられます。
 ダビデの逃亡生活と、ほら穴生活が始まりました。ダビデがサウルから独立したといううわさを聞いて、ダビデの一族、家族たち、そしてサウルに不満のあった者たち、日本風にいえば野武士のような者たちがダビデのところに続々と集まってきました。

22:1-2「ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」

 ダビデは、このとき集まった400人、すぐに600人になる家来を率いることになります。彼らは、ダビデが王となるまで、その時が来るまで、サウルに追われ、共に苦難に耐え、ユダの山地をさまようのです。
 お尋ね者であったダビデは、いつ住民に裏切られるかわかりませんでした。ある町で、住民からサウル王に、ダビデが逃げてきたことを密告され、あわやダビデは捕らえられそうになったことがありました。ちょうどその時、ペリシテが攻め寄せてきた知らせがサウルに届き、サウルはダビデを追うことをやめて、ペリシテを撃退するために急いで帰っていきました。
 こうしてダビデは、危機一髪のところで、サウルから逃れることができました。それが23章の終わりのところで、そこから今日の24章が始まります。

■ほら穴の中で

1サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。

 「エン・ゲディの荒野」に、サウルはダビデの軍6百人の5倍、3千人の部隊を連れて、ダビデ探索に向かったのでした。その荒野の岩山にほら穴があって、サウルはその一つに、「用をたすために入った」のでした。そのほら穴の奥に、偶然にもダビデと部下たちが隠れていました。
 千載一遇のチャンス。ダビデの部下は、ここでサウルを殺すように神様が導いてくださったと思ったのです。

4ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。

 ダビデは、部下の声に立ち上がり、これは神のみこころかもしれない、と思い行動しました。しかしダビデは、途中でサウルを殺すことをやめてしまいました。ダビデは、これは神様のみこころではない、と思ったのです。
 ダビデは言いました。神様が王として選んで、油を注いだ人に手を下すことができないと。ダビデは、サウルのいのちを取るつもりが、サウルの上着のすそを切り取るだけにしました。しかし衣服の裂いたことも、ダビデは「心を痛めた」のでした。一瞬たりとも、サウルを殺して王になろうと思ったからでした。
 もし、神様がダビデを王として選んでいるとすれば、必ず、ダビデは王になることができるのです。ダビデは、サウルに手を下すことなく、主の御手にゆだねようとしました。主がそのような思いをダビデに与えてくださったのです。

■ダビデとサウルの対話
 サウルは、そんなことがあったとは知らずにほら穴から出、ダビデもサウルを追って外に出ます。
 ダビデはサウルに「王よ」と呼びかけます。しかし、これは勇気のいることでした。殺されるかもしれないからです。ダビデは神様にゆだねました。サウルが後ろを振り向いた時に、王に対し、ダビデは、「地にひれ伏して、礼を」しました。
 ダビデは、サウル王に語ります。
 なぜサウル王は、私ダビデを危険な男だと思われるのか。なぜ王様のいのちを狙っているという人のうわさを信じるのですか。そんなことはありません。今も、私はサウル王を殺そうとすればできたのです。家来たちは、今こそサウル王を殺すべきだと言ったのに、私は「私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから」と言って、それをとどめたのです。上着のすそをご覧ください。切れているところがあります。それを切ったのは私です。私など、死んだ犬、1匹の蚤(のみ)にすぎません。どうか私を追い回すのをやめてください。
 どうか神様が、サウル王とダビデの間に立ってくださり、もし私が悪をたくらんでいるのなら、神がそれに報いてくださるように。私は王に対して悪をはかりません。

16ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

 ダビデの「わが父」との呼びかけに、「わが子ダビデよ」と答えます。サウルは、ダビデが王である自分にあくまでも忠誠を尽くし、誠実なダビデに感動して涙を流し、サウルは語ります。
 ダビデの言っていることが正しいこと、ダビデが必ず王になること、さらに、ダビデが王になったら自分の子孫を絶やさないと誓うようにダビデに頼みます。

22ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。

 しかし、これは、一時的なサウルの感情の高まりによる和解のことばでした。二人の立場は変わらず、サウルは王であり続け、ダビデは逃亡者のままでした。
 サウルが、いかにも信仰者のように振る舞っても、それはことばだけのことで、サウルは、サウルの道を歩んでいきます。このあとも、サウルはダビデを追い回し、26章では同じような、ダビデにいのちを救われる状況が起きるのです。

■神のみこころに従う
 しかし、ダビデは変わりました。この時から、神様に絶対の信頼をもって歩もうと決心しました。ダビデは神様の選びを疑いませんでした。
 そのように神様を信じ、従って歩むことができたなら、それはなんと幸いな人生でありましょう。ダビデはこの洞くつで、そのことを学んだのでした。
 神様に従いながらも、がむしゃらに自分の力、知恵で、自分の道を開こうとした若い時のダビデから、神様のみこころを知って、神様にゆだねて歩もうとする大人の信仰のダビデに変えられていったのでした。
 これから王になっていくダビデに、いろいろな試練がやってきます。しかし、ダビデは、生涯、神様のみこころに従う歩みを変えなかったのでした。

■詩篇57篇
 この洞くつの経験をうたったダビデの詩篇が57篇にあります。まえがきに、「ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに」とあります。

1神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。

 サウル王の追跡を受けて、さまよっていたダビデがたどりついた信仰は、神様の大きな翼の中に入れられている。いつも神様に守られている。どんな危険も心配することがない、という信仰でした。

2私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。

 ダビデは、神様は約束を必ず成し遂げられるお方であり、そのお方がダビデを導いていることを信じることができたのでした。そして、「7 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう」と、感謝の祈りに導かれたのでした。

■神のみこころを歩むイエス・キリスト
 私たちの神の御子イエス・キリストも、神様のみこころに従う歩みを歩まれました。神様のみこころは、私たちの罪を赦すことであり、罪の救いは、神の御子を私たちの代わりに十字架につけるという方法を通して成し遂げられるのでした。
 イエス様は、ゲツセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし、イエス様は十字架によ贖いを父なる神様のみこころであるとして受け入れました。イエス様は、すべて神様にゆだね、神様のみこころに従った歩みをなさいました。「自分を救え」という声に、黙って十字架の道を歩まれたイエス様。神様のみこころに従ったイエス様によって、私たちの救いの道が開かれました。

■私たちの歩む道
 神様のみこころに従う。それは、信仰の道を一直線に進む道です。

ローマ人への手紙8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」この思いに至ること。これが、神様のみこころに従おうとする者のゴールではないかと思うのです。このみことばの約束を感謝して、これからも、神様に従って歩んでいきたいと思います。


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