ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年2月24日


2008年2月24日 主日礼拝説教
「生きている者の神」(ルカの福音書20章27節〜40節)

■はじめに
 イエス様がエルサレムの神殿で人々にお話ししていたときに、ユダヤ教指導者たちが次々とやってきて、イエス様に質問をしている個所を取り上げています。前回は、パリサイ人とヘロデ党から遣わされた間者からの質問で、「ローマ皇帝であるカイザルに税金を納めるべきかどうか」というものでした。今回は、その続きです。復活を信じていなかったサドカイ人からの復活についての質問です。
 私たちのいのちがどうなるか。死んだらもうおしまいなのか。その問いに対して聖書は、いのちは神様が造られたもので、そのいのちは死後も連続していると教えます。死によって、いったんは途切れるように見えるいのちも、神様のもとにただちに行くことができる。そして、神様と共に、神様を喜ぶ新しい世界があると聖書は教えています。そして体は、世の終わりに新しい栄光の体をもってよみがえるのです。
 死によって私たちのいのちが終わりではないということを知ったならば、今を生きる私たちは、死を直前にする時まで、希望と喜びの人生を送ることができるのです。

■サドカイ人の質問

27ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、28こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 サドカイ人は、パリサイ人と並ぶユダヤ教の有力な一派で、貴族階級を地盤にしていました。彼らは復活を認めていませんでした。そこで彼らは、復活は理論的におかしいことを突こうとしました。
 サドカイ人が言ったことは、モーセの律法にあることでした。

申命25:5「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。」

 こうして生まれた子に、亡くなった兄の名前を名乗らせ、兄の遺産を相続させます。財産は近親者に残り、妻の生活も保証されることになります。

29ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。

 7人の兄弟がいて、次々と男の兄弟は亡くなり、7人の弟たちはみな長男の嫁と結婚しました。もし復活するとすれば、その女はだれの嫁になるのですか。まさか、7人の男の妻になるわけにはいかないでしょう。だから、復活などないというのです。

■めとることも、とつぐこともない
 そこでイエス様は言われました。

34イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。

 イエス様は2つの答えをされました。1つは、復活の世界の結婚関係、人間関係はどうなるのかについてです。サドカイ人は復活の世界と今の世界が同じであると考えたので、質問のようにおかしくなったのでした。
 当時は、子どもを産み、後継ぎに自分の名と土地を受け継がせることが、結婚の最大の目的でした。それは日本でも、江戸時代がそうであり、明治大正昭和になっても、戦後、新民法になるまでその考えがありました。
 ところが復活の世界では、もはや死ぬことがないのですから、後継者や相続をする者は必要ないのです。それで、イエス様は「めとることも、とつぐこともありません」、そのような目的の結婚はないとおっしゃったのです。
 復活した者は、第一義的にはだれだれの夫、だれだれの妻ではなく、神の子となるのです。神様との関係、神の子同士の新しい愛の関係に入れられるのです。
 だからと言って、天国において夫婦が見知らぬ者同士になるのではありません。夫と妻の間にも、新しい関係、新しい交わりが始まるのです。

36彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

 「彼らは御使いのようであり」とあります。御使いのようにすばらしい、栄光に満ちた存在になるというのです。私たちは、御使いの存在は頭で理解できるのですが、実感がわきません。イエス様がおっしゃった「御使いのよう」になることがどういうことかわかりませんが、それは、神様と直接お会いできる、交わりができる。そういうすばらしさを味わうことができるではないかと思うのです。このような祝福が約束されています。

ヨハネ黙示録21:4「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

■生きている者の神
 イエス様の、サドカイ人に対する2つ目の答えです。

37それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。38神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

 「柴の個所」とは、出エジプト記3章の、モーセがエジプトから追われて、逃亡生活を40年間していた時に、神様がモーセに現れ、エジプトにもう一度帰って、イスラエルの民を率いてエジプトから脱出するように言われた大切な場面です。

出エジプト記3:2、6「すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。……また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」

 モーセにとって、「アブラハム、イサク、ヤコブ」は何百年も前の人でした。アブラハムは、モーセたちイスラエル民族の最初の先祖となった人でした。その子がイサク、その子がヤコブです。
 神様はアブラハムに、アブラハムの子孫を空の星、海の砂のように、数え切れないほど増え広がると約束されました。そして、カナンの地を与えると約束しておられました。それから何百年もたち、ヤコブの子孫は60万人以上に増えていました。しかも彼らは、ヤコブの時にエジプトに移住し、エジプトの奴隷であったのです。
 何百年ぶりにモーセに現れた神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神である、とおっしゃいました。アブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であった、ではない。今も「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神であると宣言してくださったのです。
 それは、神様は何百年を経ても約束を忘れないということをモーセに示したことばでした。
 さらに、約束を忘れない神様を示すだけでなく、神様がご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶことで、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であることを示された、とイエス様はおっしゃったのです。
 それは、今も彼ら「アブラハム、イサク、ヤコブ」は生きていて、神様はその人たちの神なのだと言っているのです。そして、アブラハム、イサク、ヤコブは、神様が約束を果たしてくださったことを見ることができたのです。

■永遠のいのちを生きる
 「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

 神様は生きている者の神様です。神様によって選ばれ、神様がその人を救いの中に入れた者は、永遠のいのちを与えられたのです。それは、死後の世界だけではありません。神様は生きている者の神だからです。
 神様に対して(神様との関係によって)この世で生きる者たち。神様に信頼し、神様の約束を信じて、今を歩む者たち。それは、イエス・キリストを知って、キリストを救い主として信じた者が、機会が与えられて洗礼を受けた者たちです。
 その者たちは、新しいいのちが与えられていると約束されています。

コリント人への手紙第2、5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 新しく生まれたいのちは、永遠のいのちに続くいのちであり、新しく造られたいのちが永遠のいのちの始まりです。

ヨハネの福音書4:14「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 この約束は、死後のことを言っているのではありません。信じた者が直ちに与えられる約束です。私たちは、新しくされ、すでに永遠のいのちによって生きています。そのいのちによって、地上を生かされています。ですから、私たちの歩みに、喜び、感謝、平安があるのです。
 イエス様によって、罪を贖われ、永遠のいのちを約束された者は、今も「神に対して、生きて」います。そして、神様によって、今と同じように永遠に生きることができるのです。私たちは今日も、神様が約束された永遠のいのち、復活のいのちをもって「神に対して、生きている」ことを感謝して歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年2月24日