ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年2月17日


2008年2月17日 主日礼拝説教
「まことの友なるイエス」(サムエル記第一20章)

■はじめに
 サムエル記の主な登場人物はサムエル、サウル、ダビデの3人です。まず登場したのがサムエルでした。サムエルは、祭司、預言者として国を指導しました。当時、イスラエルは外国から、特にペリシテからの侵略が続き、イスラエルの独立は危うくなっていました。それで人々は、サムエルのような者をしりぞけ、新しい強い、戦いを指導する軍事的リーダーとなる王を望んだのでした。
 最初の王に選ばれたのがサウルでした。サウルは、王になってから、神様の助けによって周りの国との戦いに次々と勝利していきました。そこから、自分の力でイスラエルを治めることができるというサウルのおごり高ぶりが起こりました。
 アマレクとの戦いがありました。聖絶しなさい(滅ぼし尽くしなさい)と神様に命令されたにもかかわらず、サウルは神様の言われたとおりをしませんでした。自分にほしいものを残しておいたのです。このような、神様を軽んじる態度によって、サウルは神様から王としてふさわしくない者とされてしまいました。
 次の王として神様が選んだのは、まだ少年のダビデでした。ダビデがひそかに王として選ばれたことを、まだだれも知りません。どのようにして無名のダビデが王になっていくのか。その話が続いていきます。

■ゴリヤテとの戦い
 前回は17章でした。ペリシテとの戦いで、ペリシテの代表としてイスラエルの前に出てきたのが、ゴリヤテという名の完全武装をした2メートル以上もある大男でした。彼は、一騎打ちで勝敗を決めようと、両陣営の真ん中に出てきたのです。しかし、だれも、ゴリヤテに立ち向かう者がいません。勝てると思えなかったのです。
 そこに登場したのがダビデでした。ダビデは、イスラエルの神が生きておられることを示すために立ち上がりました。ダビデはよろいも着けず、剣も持たず、杖と石投げだけでゴリヤテに立ち向かいました。「この戦いは主の戦いだ」と叫び、神様が助けてくださると信じて、ダビデが石投げ器から放った石がゴリヤテの眉間にみごと命中し、ゴリヤテは倒されてしまいます。

■ヨナタンとの出会い
 その戦いが終わり、ゴリヤテの首を持ってサウル王の前に来たダビデを見て、一目でダビデを好きになり、生涯変わらぬ友情を築くことになる若者がそこにいました。それが、サウル王の息子、王子ヨナタンでした。本来なら、サウルの次に王になるはずの若者でした。

「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(18:1)。

 ヨナタンも勇士でした。ヨナタンの最初の登場は13章です。この時もペリシテとの戦いでしたが、ヨナタンの活躍によってイスラエルに大勝利をもたらしました。
 当然二人はライバル関係でした。相手を倒せば自分が王になれるという緊張関係のなかで、二人は深い友情を結んだのです。生涯変わらない、子孫にも受け継がれる友情を築いたのです。
 二人は同じ神様への信仰を持っていました。ヨナタンは、自分と同じように主を信じ、主に頼り、主をあがめる人ダビデを、その信仰のゆえに愛したのです。それは、「自分と同じほどに」(18:1)「女の愛にまさって」(Uサムエル1:26)とたたえられる友情でした。

■ダビデを殺そうとするサウル
 ゴリヤテを倒したダビデは、一躍、普通の人からイスラエルの有名人、英雄となりました。女たちは喜んで凱旋したダビデを迎えました。ダビデは、サウルの娘、王女ミカルを妻とし、千人隊長となり、次々と起こるペリシテとの戦いに勝ちを収めます。人気は高まる一方でした。
 サウルの心に、ダビデへの嫉妬と恐れが入りました。サウルは、人気、実力とも、次の王としての資格を着々と備えてくるダビデを恐れ、殺そうとしました。

1ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」

 ダビデは、サウルが自分を殺そうとしていることを親友のヨナタンに告げました。ヨナタンは、ダビデのことばを聞き、父サウルがそのようなことを考えていることが信じられませんでした。それは、サウルがダビデとヨナタンとの関係を知って、ヨナタンには秘密で事が行われていたからでした。

■ダビデのヨナタンへの願い
 ダビデはヨナタンに頼みます。まもなくやってくる新月の祭りに、サウルとヨナタンとダビデと将軍アブネルとが食事を共にすることになっていました。もしサウルが、ダビデが欠席したことにさほど問題を感じなかったなら、ダビデの恐れは杞憂であったことになります。しかし、サウルがダビデの来ないことに激怒すれば、それは、サウルがダビデに対して殺意を抱いていることがはっきりします。そのことを知らせてほしいと、ヨナタンに頼みました。
 ヨナタンは、ダビデが次の王になることを認めていました。ヨナタンは自分がなるかもしれない王の位を放棄しました。それほどダビデへの愛は、犠牲的であり、純粋でした。「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである」(17節)。
 ヨナタンはダビデに連絡方法を告げます。野原の岩陰に隠れているダビデの近くに矢を打ち、矢が子どもの先に飛べば悪い知らせであり、矢が近くに、子どもとヨナタンの間に落ちれば良い知らせである、ということにしました。

■ヨナタンがサウルの本心を知る
 新月祭の食事が始まりました。1日目は何もなく過ぎました。サウルはダビデについては何も言いませんでした。何か出席できない事情ができたと思いました。2日目になると、ダビデの来ない理由が思いつきません。そこでサウルはヨナタンに尋ねます。

27しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。「どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。」

 ヨナタンは父サウルに、ダビデと打ち合わせてあったとおりを告げました。そのとき、サウルの感情が爆発するのです。

30サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。

 おそらく初めてでしょう。ヨナタンはサウルの激昂、罵声を聞きました。自分の息子であるヨナタンとその母親を口汚くののしる父親のことばを聞きました。
 「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」ヨナタンのあくまでダビデをかばう純粋な気持ちに、さらにサウルの怒りに火がつき、ヨナタンに、そばにあった槍を投げつけました。ヨナタンは怒りました。それは、殺されそうになったからではありません。ダビデが辱められたからでした。

■ダビデとの別れ
 翌朝です。ヨナタンは、かねて打ち合わせのとおり、矢の練習をよそおって子供を野原に連れ出します。矢が射られました。矢は遠くに射られました。サウルがダビデを殺そうとしていることを知らせる合図でした。

38ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。…41子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。

 二人は、もう二度と会えないかもしれません。しかし、二人が交わした約束は、永遠に変わらない、主が証人となってくれるものでした。「私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です」(23節)。「主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です」(42節)。
 友のためにまことを尽くす。ダビデとヨナタンの間には、神様が永遠の証人として立ってくださったのでした。ダビデはその契約を忘れず、王になったとき、ヨナタンの息子「メフィボシェテ」を自分の宮殿に呼び、自分の息子のように助けたのでした。

■まことの友なるイエス様
 ダビデとヨナタンの間にあった友情から、私たちとイエス様のことを考えてみましょう。
 イエス様は、私たちのまことの友となってくださいました。しかもその友は、仕える友でした。そのことをイエス様は、身をもって示してくださいました。そして、新しい戒めを私たちに与えてくださいました。

ヨハネの福音書13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 イエス様がこの戒めを与えたときは、弟子たちの足を洗ったあとでした。イエス様は、弟子たちの足をしもべのようになって洗ってくださいました。それは、弟子たち一人一人を愛されたからでした。
 イエス様は同じように、私たち一人一人を愛してくださっています。イエス様が手ぬぐいを腰につけ、たらいに水を入れ、一人一人の足もとにかがんで、足を洗ってくださった。それほどに、私たちを愛し、大切に思い、いつくしんでくださるのです。
 そのように、一人一人がイエス様によって愛されている者たちの集まり、それが教会です。私たちが互いに愛し合うのは、みなイエス様に愛され、イエス様によって足を洗っていただいた者たちだからです。
 イエス様は、このように、仕える姿となって、私たちのまことの友となってくださいました。それだけではありません。その友が私たちのためにいのちを捨ててくださったのでした。そのことを、聖書は次のように言っています。

ヨハネの福音書15:13「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

 イエス様は十字架上で、ご自分の愛する友のためにいのちをお捨てになりました。それによって、私たちは、まことの愛を知ることができ、イエス様から罪の赦しを、罪のきよめを受けたのです。
 その愛をもって愛してくださった、同じ主にある兄弟姉妹の交わりを私たちは大切にしたいと思います。それは、イエス様がいのちをもって、贖ってくださり、買い取ってくださり、私たちに与えてくださった兄弟姉妹だからです。

ヨハネの手紙第1、4:19「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

 私たちのまことの友であるイエス様。「友のためにいのちを捨てるという大きな愛」を示してくださったイエス様を思い、感謝して、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年2月17日