ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月16日


2007年12月16日 主日礼拝説教
「神は私たちとともにおられる」(マタイの福音書1章18節〜25節)

■はじめに
 八千代緑が丘で映画『マリア』を見ました。神様の導きによって、マリヤとヨセフ、3人の博士たち、羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋に向けて旅をする。その過程が感動的に描かれていました。イエス・キリストの誕生は、神様にとっても、何千年もの間ご計画していた神の子が人となる瞬間であったのでした。
 私は、マリヤの処女降誕の教理をすなおに受け入れることができました。なぜ、イエス様はこのような生まれ方をしたのか。それは、私たちの救い主となるためには、聖霊によって処女マリヤから生まれる必要があったからです。イエス様は、完全な人であり、神の子としてお生まれになったのです。

■ヨセフの悩み
 マリヤに主の御使いが現れ、聖霊によって子どもが与えられることを告げました。マリヤは、そのことばをそのまま受け入れました。
 しかし、マリヤの夫であったヨセフはどうだったでしょうか。ヨセフは、このことをどう考えたらよいかという戸惑いと、マリヤをどうしたらよいかという苦悩の中にありました。

18イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

 この当時、ユダヤの結婚は、男は18−20歳、女は12−14歳であったと言われています。結婚が決まった場合、1年間はそれぞれ別々に過ごします。これはきびしく行われたようです。お互い、行き来することも、会うこともなかったと言われています。しかし、それでも、社会的には二人は結婚していると言われていました。
 そのような、それぞれが分かれて過ごしている時に、マリヤが「身重になったことがわかった」のでした。それは、結婚した妻が犯す姦淫と同じような重い罪でした。
 最初に気づいたのは、マリヤの両親であったでしょう。映画では、親が「相手はローマの兵士か」と尋ねる場面があります。そう思うのが当然であった時代でした。マリヤは正直に、御使いから告げられたことを話しました。両親は、そのことばを信じることができなくても、自分の娘と、孫になるその子を受け入れたでしょう。
 しかし、夫となるヨセフはそうはいきません。ヨセフには、あらかじめ御使いからの告知がなかったのです。いったい何が起こったのかとヨセフは思い悩むのです。

19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ヨセフは「ヨセフは正しい人」であったと言われています。神様を信じ、神様の教えに従って生きようとしている人のことです。ヨセフには3つの選択肢がありました。
 1、マリヤの子は自分の子どもであることを認めて結婚する。
 しかし、「正しい人」ヨセフには、結婚前にマリヤと関係を持ったという非難には耐えられなかったのです。
 2、律法の教えのとおり、マリヤの犯した罪を裁判に訴える。
 マリヤの罪を公にすることです。その場合、マリヤはさらしものにされ、もしかして石打ちの刑になるかもしれなかったのです。しかし、ヨセフには、愛する妻マリヤをそのような目にあわせることは忍びなかったのです。
 3、ヨセフがしようとしたことは「内密に去らせる」ことでした。まだ公にならず、それほど広まっていないうちにマリヤに離婚状を出して、そっと去らせようとしたのです。ヨセフはマリヤを愛していたからです。「内密に去らせた」としても、「正しい人」ヨセフに離縁した男というレッテルが張られることになります。
 そう決めても彼は思い悩むのです。生まれてくる子はどうなるのか。マリヤに育てられるのか。はたして、自分の決断でよかったのか。ほかに道はないのか。ヨセフは、さまざま思い巡らしていたことでしょう。

■主の使いが夢の中で語られる
そのようなとき、神様はヨセフに語ってくださいました。

20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

 聖霊による懐妊。そんなことは聞いたことがない。マリヤの子は不義の子ではなかったのか。聖霊による子とは何なのか。次々とヨセフに疑問がわいてきます。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 さらに、主の使いは男の子が生まれる。名をイエスとつけるようにと告げます。イエス(主は救い)は、ヘブル名でヨシュアです。
 生まれてきた子どもに名前をつけることは父親の役目でした。主の使いはヨセフに、人々の非難をあびながら、生まれてくる子どもの父親となるようにと告げたのです。
 ヨセフには、神の子をどう育てたらいいのか。あれやこれやの思いがわいてきます。しかし、主の使いは「恐れないで」と告げました。そうだ、そのような心配は神様がしてくださる。ヨセフは、神様にすべてをゆだねて、マルヤを妻として迎えることにしました。
 人がどう言おうと、マリヤと結婚することができる。それはヨセフのいちばんうれしかったことでしょう。ヨセフはマリヤを愛していたのです。

■罪から救う方
 主の使いは、そのお方は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる」と告げました。生まれてくる子は、「ご自分の民」の罪をすべて引き受け、その罪を赦し、救ってくださるのです。「ご自分の民」とは、全世界にいる、神の民です。
 マリヤの子をヨセフが自分の子どもとして育てることは、ご自分の民を愛してくださる神様がご自分の民を救うという神様のご計画の大事な一点でした。ヨセフ、それが信じられますか。信じられるなら、マリヤをあなたの妻として迎えなさい、と言われたのです。神様のご計画が、ヨセフの信仰にかかっていたのでした。なんと光栄なお役目をヨセフはいただいたことでしょうか。
 ヨセフはそれをすなおに信じました。すばらしいヨセフの信仰でした。そのような信仰を神様が備えてくださったのです。マリヤが主の使いのことばを受け入れ、「神にとって不可能なことは一つもありません。……ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:37−38)と言った信仰と、ヨセフが、生まれてくる子どもが神の子であると信じ、その子の父親と呼ばれることを受け入れた。この二人の信仰によって、クリスマスの喜びがあったのでした。

24ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

■インマヌエルの預言
主の使いのことばは21節までですが、そのあと、この聖書を書いたマタイは、この出来事は聖書の成就であったことを語っています。

22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 これは、イザヤ書7章14節のことばです。イザヤが預言者として活躍したユダのアハズ王の時代、クリスマスからおよそ700年前のことです。ユダに、アラムと北イスラエルの連合軍が攻めてきました。ユダは危うくなりました。心が揺らいでいたアハブ王に、イザヤが告げたことばがこれでした。

イザヤ書7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 そのことばを聞いてアハブ王はどうしたでしょうか。アハブは、アラムよりもさらに強い国、アッシリヤに助けを求めたのでした。しかし、その結果、エルサレム神殿にアッシリヤの神々の祭壇と同じものを据え、そこにささげ物をささげることになったのです。
 イザヤの預言はどうなったでしょうか。神様は、もっともっと先のことを見ておられたのです。これが700年後、イエス・キリストが誕生したときに実現したとマタイは書いたのでした。
 名前は「インマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる」。
 イエス・キリストの誕生によって、神様が私たちと共にいることが目の前に、見える形で実現しました。すべての人にとって、いつも神様がいっしょにいてくださるということが、人の世に見えるかたちでここに実現したのです。

■神がともにいてくださる約束
神様が共にいることの約束は聖書の中に満ち満ちています。

申命記31:8「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」
イザヤ書41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

 いつも神様がいてくださる。アハブ王は、それを受け入れることはできませんでした。神様が共にいてくださり、神様が共に戦ってくださることを信じることができませんでした。
 私たちはどうでしょうか。私たちは、インマヌエル、「神は私たちとともにおられる」というみことばを喜んで受け入れます。また神様のことばをすなおに受け入れたヨセフの信仰を思いつつ来週のクリスマスを迎えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年12月16日