ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年11月25日


2007年11月25日 主日礼拝説教
「あなたの信仰があなたを直した」(ルカによる福音書18章35節〜43節)

■はじめに
 イエス様たち一行はエルサレムへの途上、エリコにやってきました。エリコは、エルサレムへあと1日の道のりです。
 このいやしの物語は3つの福音書に共通していますが、少しずつ違っています。マタイの福音書20章では2人の盲人がいたと書かれています。マルコの福音書10章では1人ですが、名前がバルテマイと紹介されています。ルカの福音書ではエリコの町に入るときの出来事であり、マタイ、マルコでは、エリコから出るときに起こったこととなっています。これらについては、いろいろな説明がされています。
 ルカの福音書18、19章は、「救い、救われる」というテーマが続きます。18章9節から始まり、神殿で遠く離れたところで祈った取税人、イエス様のところにやってきた幼子、裕福な役人、そして、今日のエリコの町にいた盲人、続けて19章のザアカイとなっています。

■エリコの町のバルテマイ

35イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。36群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。

 イエス様が行くところ大勢の人々がいました。今までイエス様から恵みを受け、イエス様に従っていこうと決心した人たちでした。このときは過越の祭りが近づいていました。その祭りへの巡礼者たちも、イエス様を囲む群集といっしょにエルサレムへ上っていたと思われます。
 その騒ぎに、町の道ばたに座っていたバルテマイが気づきました。「これはいったい何事ですか」と。

37ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、38彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。

 バルテマイは、イエス様の噂をすでに知っていたでしょう。バルテマイは、エリコの道ばたに座りながら、イエス様のことを聞き、この方こそ待ち望んでいた救い主だと信じました。彼は信仰を持ったのです。ダビデの子(救い主を意味していた)という呼びかけは、バルテマイの信仰の表明でした。
 バルテマイは「私をあわれんでください」という率直に願いました。それを何度も何度もイエス様に訴えるのです。これは、今までは「お金を恵んでください」という意味で使っていたでしょう。今は違います。バルテマイは、イエス様が本当に必要なものを与えてくれるお方として呼びかけたのです。

39彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。

 先頭を歩いていた人たちがそれをたしなめました。弟子たちにとっては、緊張と悲壮感あふれる旅でした。もうすぐ神の国が現れるという期待もありました。またイエス様は、十字架にかかるということを明言しておられたからです。

■熱心に願い求め続ける
 バルテマイは必死でした。どうしてもイエス様にお会いしたい、直していただきたかったのです。人々が止めたぐらいではあきらめません。
 彼は、あくまでも求め続けました。熱心に求め続けました。
 ルカの福音書11章を覚えておられるでしょうか。真夜中に友人が家に訪ねて来ましたが出してあげるパンがありません。それで、別の友人のところに行って、パンを貸してくださいと頼みました。頼まれた友人はもう寝ていたので断りたかった。それでも頼み続けたので、その熱心さに負けて起き上がってパンを貸してあげたのです。
 そのように祈りなさい、とイエス様は教えられました。

ルカの福音書11章「9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 求め続ける信仰です。私たちは、一番欲しいものを求めに求め続けるのです。そのとき神様は道を開いてくださり、その祈りに答えてくださいます。それは、神様は、私たちの必要をご存知であられ、神の国を「まず第一」とする者に必ず与えてくださるものだからです(マタイ6:33)。

■求めるもの
 イエス様は、列の前のほうで行われている騒ぎに気づきました。イエス様は立ち止まりました。バルテマイは、イエス様のもとに連れて来られました。
 イエス様は、バルテマイに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのか」と。このイエス様の質問は、あまりにも分かりきったことでした。バルテマイは目を開けてほしかったのです。
 バルテマイは率直、単純に答えました。彼が欲しかったものを求めました。「主よ。目が見えるようになることです」と。
 それは、バルテマイにとって一番欲しかったものでしたが、今まではだれにも言えなかったものです。そんなことを人に言ったら笑われるだけでしょう。しかし、今はそれが言えるのです。イエスを救い主と信じる者は、自分の最も必要なものを求めていいのです。それがどんなものであっても要求していいのです。

ヨハネの福音書15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

 また、ルカの福音書1章37節に「神にとって不可能なことは一つもありません」とあります。これをだれが言ったかご存知ですね。一階入口の看板にかかっているエル・グレコの「受胎告知」の場面です。
 マリヤは、天使から神の子の母となる。それも聖霊の働きによって与えられる、と告げられました。天使から信じられないようなことを言われて、マリヤは答えたのでした。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」と。
 バルテマイは、長い間苦しんできたこと、最も必要なものを、イエス様の前で言うことができました。あとはイエス様にお任せするだけです。

42イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、43彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

 イエス様はその願いに答えてくださり、直してくださいました。

■一人一人の信仰を見てくださる
 イエス様はバルテマイの信仰を見られました。イエス様は、信じて叫び続けたバルテマイの信仰を見られたのです。イエス様ならできるという信仰。その信仰にイエス様は目を留めてくださいました。イエス様は、それを「あなたの信仰」と言ってくださったのです。
 「あなたの信仰」は、今まで何度か注意を引いたことばでした。
 17章で、10人のツァラアトの人がいやされました。感謝するためにイエス様のもとに帰ってきたのはサマリヤ人でした。イエス様はそれを「あなたの信仰」と呼んでくださいました。
 8章で、イエス様の衣にさわった長血の女がいました。そのような迷信にも似た信仰を、またイエス様にすがっていく信仰を「あなたの信仰」と呼んでくださったのです。
 7章で、イエス様の足に香油を塗った罪の女が出てきました。その女の人に対しても、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」(7:50)と言ってくださいました。
 イエス様は、一人一人に目を留めてくださったのです。

歴代誌第二16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」

■信仰によって恵みが与えられる
 私たちは、神様から豊かな祝福をいただいています。どんな小さな信仰であっても豊かな祝福を受けることができるのです。それは、イエス様に出会いイエス様を信じて救われた人たちを見ればわかります。今日のバルテマイもそうでした。
 私たちは、「キリスト・イエスを信じる信仰」によって救われるのです。

使徒の働き16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 バルテマイは、イエス様が「ダビデの子」救い主であったことを信じました。私たちもそうです。イエス様を救い主であると信じるのです。
 2000年前にイエス・キリストがこの世に生まれたこと、十字架にかかって死んだことは歴史的事実で否定することができません。そのイエス・キリストが救い主であることを信じるのです。

ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 イエス様が神の御子であったこと、十字架の死によって私たちの罪を赦し、私たちを滅びから救ってくださった。イエス様が永遠のいのちへの道を開いてくださった救い主であったことを信じることです。

■喜んで従って行く
 バルテマイは目が見えるようになったとき、周りにいた人たちに賛美が起こり、さらにバルテマイはイエス様に従って行ったのです。

43彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

 バルテマイは、いやされたことを感謝して、「神をあがめながら」歩んでいきました。

テサロニケ人への手紙第一5章「16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 私たちは、日々イエス様を救い主と信じ、喜びと祈りと感謝をもって神様に従って歩んでいきたいと思います。


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