ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年10月28日


2007年10月28日 主日礼拝説教
「取税人の祈り」(ルカによる福音書18章9節〜14節)

■はじめに
 前回に続き、これもルカの福音書だけにある有名なたとえ話です。ここから、しばらく神の国に入ることについての話(幼子、裕福な者)が続きます。今日のたとえ話には、二人の対照的な人物が登場します。パリサイ人と取税人です。
 私は、この箇所には思い出があります。夏の小学生キャンプで手伝いをしていたとき、説教者にお願いされ、説教の前に短い劇をしました。「パリサイ人の役を」ということで、シーツを巻き、両手を高々と上げて、偉そうに祈りのことばを述べました。以来、この箇所を読むたびに、その夏のことを思い出し、両手を上げているパリサイ人の姿が浮かんできます。
 今回、改めて読んでみると、立って祈ったとあるだけで手を上げて祈ったとは書いてないのですね。手を上げて祈ったかもしれないし、ただ顔だけを天に向けて祈ったかわかりません。詩篇に「手を上げて祈る」とあるので、手を上げたのかもしれません。

■パリサイ人と取税人

9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

 「自分を義人だと自任」している人たち、それはパリサイ人でした。義とは聖書にあることばで、道徳的に正しいかではなく、神様との関係において正しいかどうか、神様がそう認めてくださるかどうかです。神様が正しいと認めた人を「義人」と言います。
 パリサイ人たちは、そのように自分は神様に正しいと認められている者です。「自分を義人だと自任」している人でした。
 聖書にたびたび出てくるパリサイ人とは、どのような人たちだったのでしょうか。パリサイ人の意味は「分離された者」のことで、腐敗・堕落した大衆から離れ、最も厳格に律法を守り、神への忠誠を果たそうとした人たちでした。パウロもパリサイ人で、自分を紹介するときに、「私は律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:5-6)と言っています。
 パリサイ人は、宗教的・道徳的エリートであり、だれよりも安息日規定やきよめの規定を守り、神のみこころがイスラエルに行われることを願っていました。しかし、このたとえ話で言われてしまうような、真剣に律法を守ろうとすればするほど、本質から離れてしまうことが多かったのです。
 一方、取税人は、パリサイ人とは対極にある人でした。彼らは、遊女やサマリヤ人と並んで人々から嫌悪の目を向けられる存在でした。ローマの植民地であったユダヤの税金は、取税人の請負制がとられていました。ローマに払う税金と徴収する額の差額を自分のふところに入れることができたのでした。そのようなわけで、取税人は、敵国ローマの手先となって不当な税をしぼり取っていたので、売国奴・裏切り者とされていました。
 そのパリサイ人と取税人が神殿に来て祈りました。強固な意志をもって律法を守り抜いている、だれからも賞賛されている人間の代表であるパリサイ人。一方、だれからも嫌われている、人間のくずとまで言われているような取税人。この二人が同時に神殿に上って祈り始めたのです。

■パリサイ人の祈り

11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 まず、パリサイ人が祈りました。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」(マタイ6:5)とあるように、彼は、人々の視線を意識して祈ったでしょう。彼は、目を天にあげて、このように祈りました。
 「おお主よ。私は不当なごまかしをしたり、ゆすりや姦淫なども決してしておりません。週に二度、暑くても寒くてもどんなことがあっても断食をしております。十分の一税はどんな収入でもごまかさずにきちんと納めさせていただいています。ここにいる、この取税人とは違い、あなたのお心にかなった立派な生活を送っております。」
 私たち日本人が聞けば鼻につくようなこの祈りのことばも、たとえ話なので少し誇張して言っていると思いますが、このたとえ話を聞いているユダヤの人々には、「そのとおり、ああ、立派に律法を守っているパリサイ人の祈りだなあ」と感じたでしょう。それは、パリサイ人とは、この祈りのことばにうそ偽りのない生活を送っていた人たちだったからです。 
 しかし、この祈りは、自分の正しさを数え上げています。断食を2回していると神様に対する熱心さを誇っています。また罪の告白がありませんでした。パリサイ人は、見える罪を犯していなければ、自分は正しい者であるという思い違いがあったのでした。

■取税人の祈り
 一方、後ろのほうでしか祈ることを許されなかった取税人も祈りました。

13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 目を天にあげることができず、自分の罪を認めて祈りました。「自分の胸をたたいて」(たたき続けて)祈りました。嘆き悲しみを表しています。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」これだけの祈りでした。
 しかし取税人の思いは、このようなことでいっぱいだったでしょう。「私は悪いこととは知りながら、今まで気に入らない人にはわざと税を多く取り、人々から白い目で見られれば、ますます冷たく当たってしまうような人間でした。こんな罪深い私ですが、どうぞ神さま、あわれんでください。」
 彼は罪を認め、ゆるしを求める資格さえないことを知り、ただ神さまにあわれみを求めているのです。神様だけを相手にしている祈りでした。

■義と認められる人
 このあと、イエスさまが言ったことばは、聞いていた人にびっくりするようなことでした。

14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 取税人は「義と認められました」。神様の前に正しいとされました。イエス様がそう宣言されました。これは、「あなたの罪は赦されました」と言って罪を赦してくださったと同じように、神であるイエス様だけが言うことができる宣言でした。
 初めから問題にされていなかった、救われるはずのない取税人は義と認められました。片や律法を守り、謹厳実直に生きてきたパリサイ人。自分は義人であると自任していたパリサイ人は、神さまに受け入れられなかったのです。
 だれでも自分からは、義となることはできません。神様との関係を正しくすることはできません。どんな立派に生活していても罪人であるからです。そのことに気づいたならば、だれでも神様の前に出て、目を天に向けることもできないで、「神様お赦しください」と祈るしかない者であります。それを、パリサイ人にはわからなかったのです。

■自分を低くする生き方
 イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と結ばれました。イエス様は、「自分を高くする者」、パリサイ人の高ぶり、高慢な心、自分を高くしようとする心を受け入れませんでした。しかし「自分を低くする者」、取税人の「砕かれた、悔いた心」を見られたのでした。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:5)。
 義と認められた者、神様に従おうとする者は、その後の生き方が問われます。「砕かれた、悔いた心」「へりくだる者」、そのように生きなさいとイエス様はおっしゃったのです。これが、今日のポイントの一つです。

■信仰によって義とされる
 もう一つ、「義と認められる」ことについて考えてみましょう。取税人は「砕かれた、悔いた心」で神様に祈りました。そうしたから、神様が取税人を義と認めてくださったのでしょうか。ガラテヤ人への手紙のことばを思い出します。

2章「16しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。」

 取税人は悔い改めて、あわれみを求めたから、そう祈ったから、その行いによって義とされたのではありません。イエス様は、それを喜んでくださり、その心を受け入れてくださったのです。
 だれもが義とされるはずがないと思われていた取税人が、義と認められたこと、それは神様の恵みでした。
 私たちの救いは、みな神様の側に主権があります。「一匹の羊を探す羊飼いのたとえ話」では、羊飼いは食べものもなく、悲しく荒野を迷い出ている羊を自分のほうから積極的に探し歩いて見つけ出してくれたのです。
 どんな人でも自分の側から拒絶しないかぎり、神様はその人を探し出し、受け入れてくださるのです。私たちもそのようにして神さまのもとに帰ったのです。
 私たちがそのように信仰を持つにいたったのは、自分の思いではありませんでした。それは神様の選びでした。

ヨハネの福音書15章「16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」

 そして、それは恵みでした。神様からの賜物でした。

エペソ人への手紙2章「8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 恵みを受けた者のこれからの信仰の歩みも神様からのものです。取税人のへりくだりの思い、「砕かれた、悔いた心」、そのほか信仰生活を歩む行いも、神様が備えてくださるのです。

10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 私たちが、信仰をもって「良い行い」に歩めるのも、「砕かれた、悔いた心」をもって、神様の前に出ることができるのも、神様が備えてくださった行い、恵みです。

■十字架
 その最大の恵みは、私たちの罪のために、イエス様が代わりに十字架にかけられ、死んでくださったことです。取税人が「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った祈りに、イエス様はご自分の死をもって答えてくださいました。イエス様は、「あわれんでください」と祈る者たちに、あわれみを示してくださったのです。
 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 まことに「自分を低くする者」、それはイエス様だけがなしうることでした。私たちは、いつまでも「自分を高くする者」です。しかし、神様は、そのような者を愛してくださり、あわれみをもって赦してくださり、神様と共に歩む道に導いてくださるのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年10月28日