ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年10月7日


2007年10月7日 主日礼拝説教
「神は私の助け」(ルカによる福音書16章19節〜31節)

■はじめに
 このたとえ話は、「ハデス」(死んだ者が神のさばきを待つ所)の恐ろしさ、怖さを思い知らされる話です。
 このたとえ話はだれに向かって、何のためにしたのでしょうか。14節を読みます。「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」イエス様を鼻であしらうようにばかにし、あざ笑ったパリサイ人が出てきます。このたとえ話は、そのパリサイ人に向かって話された話でした。
 またこれは、15章から続いていると見ることができます。15章は、イエス様のもとに来た取税人、罪人に対して、パリサイ人、律法学者が「イエスという人は、罪人たちを受け入れ、食事もいっしょにしている」とつぶやいたことから始まりました。そこから、どういう人が救われるのか、救われるためにはどうしたらよいかをたとえ話を通して語ってきました。
 それら「一部始終を聞いて」いたパリサイ人、とりわけ「金の好きな」と言われているパリサイ人がイエス様をあざ笑ったのでした。
 イエス様はそれに答えられて、自らを正しいとしている彼らの罪を指摘したのでした。そして、続けて今日のたとえ話を語られました。

■金持ちとラザロ

19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 「紫の衣や細布」は最高のぜいたく品でした。紫の衣や細布は、当時、貧しい人には手に入らない、たいへん高価な着物でした。金持ちは、これを着て毎日遊び暮らしていたのです。
 しかし、このことを問題にしているわけではありません。彼は、「紫の衣や細布」を着ることができる富を得ていたのであり、ぜいたくをして暮らすことができる境遇だったのです。
 そして「ラザロ」です。ラザロは、「全身におでき」できている「貧しい人」です。助けてくれる身内もなく、「食卓から落ちる物腹を満たしたいと思っていた」とあります。さらに、のら犬がラザロのおできをなめたとあります。なんとラザロはみじめで、孤独であったでしょうか。
 この二人(金持ちとラザロ)が、一人は門前ではありましたが同じ家にいたのです。一方は紫の衣や細布を着た金持ちと、もう一人は食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた貧しいラザロ。その二人が人生の最後を迎えます。

■金持ちの願い1

22さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 あまりにも対照的です。ラザロは死に、その魂は御使いたちによって、ユダヤ人の父祖、「アブラハムのふところ」に連れて行かれました。パリサイ人のだれもが望む、アブラハムのいる天国。ラザロは、その救いと祝福の場所に入れられたのです。
 一方、金持ちも死んで葬られました。葬儀は盛大であったかもしれません。しかし死後に何があったのでしょうか。金持ちは、刑罰の場所である「ハデス」に移され、そこで苦しみを受けなければなりませんでした。彼が受けると思っていた祝福、アブラハムのもとに行くという祝福がハデスから見えたのでした。
 金持ちは、苦しみの中、「父アブラハムさま」と訴えます。自分が律法を守り、アブラハムの子として忠実であったことを語り、「私をあわれんでください」と訴えます。そして2つの願いを言います。
 苦しさの中、「一滴の水で自分の舌を冷やしてください」と願いました。そのために、「ラザロをよこしてください」と訴えます。金持ちは、ラザロを自分の召使いのように思っていたのです。

■アブラハムの答え
 しかしアブラハムは、金持ちの願いがまったく無理であることを伝えます。1つは、25節「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました」という、生前の生き方が問われます。
 金持ちはたくさんの良いものを受けていたのですが、それらが神様からいただいたものであることを忘れ、自分の力で得たと考えてしまったのです。それが、イエス様がパリサイ人に言ったことば、15節「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです」ということばであったのでした。その結果が今「苦しみもだえている」現実なのです。
 ラザロはどうでしょうか。ラザロは確かに悪いものを受けていました。貧しかったのでした。でも、それだからこそ、ラザロは神様への信仰、信頼だけで一生を生きたのです。それで、いまアブラハムのもとに迎え入れたのです。
 さらに、アブラハムは言います。アブラハムがいる所と、金持ちがいる所に、26節「大きな淵があって、ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできなかった」のです。神様が決定されたことは、もはや変更できないのでした。

■金持ちの願い2
 金持ちは自分のことはあきらめました。しかし、2つ目の願いを言います。

27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 金持ちは、自分の兄弟たちを救ってやりたいと思いました。この現実を知っているラザロが証人となれば、まだ悔い改める時が残っている間に、ここに来ないようにと警告できると思ったのです。

■アブラハムの答え

29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 アブラハムの答えです。「モーセと預言者」とは旧約聖書のことです。人の死と、死後のさばきについてはもう聖書に語られている。それを読めば十分であるというのです。しかし、金持ちはその答えでは満足できませんでした。

30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 金持ちは聖書を知っていたし、正しいことをしていると思っていました。それだけで自分はアブラハムのもとに行けると思っていました。しかし、死後にこのような逆転があるとは思いもよらなかったからです。
 それで、金持ちは、「聖書だけではわからない。だれかが死からよみがえって、このことを伝えて、兄弟たちの目をさまさせてください」と願ったのです。
 ところが、アブラハムは、「たといだれかが死人の中から生き返っても」彼らは悔い改めと信仰に至らない、と言います。
 しかしイエス様は、実際に死からよみがえってくださいました。確かに、その復活を見ても、すべての人が信じたわけではありません。私たちは、ことばだけではイエス様の復活を信じることができない、かたくなな心を持っているのです。
 イエス様は、「モーセと預言者」モーセと預言者で十分とおっしゃったのに、私たちに復活の姿を見せてくださいました。それは、神様の大きな恵みとしか言いようがありません。復活は、ある人にはつまずきの出来事でしたでしょうが、「救いを受ける私たちには、神の力、神の知恵」なのです。

■死後の世界
 さて、このたとえ話は何を私たちに語っているのでしょうか。
 ハデスから天国にいるアブラハムが見える。声をかけることもできる。しかも、そこには越えられない大きな淵が横たわっている。
 これは、ありのままの死後の様子をそのまま伝えているわけではありません。これは、パリサイ人に語っているたとえ話なのです。しかし、私たちは、ここから、死後の世界はあるということを教えられます。しかも死後ただちに、ある者はハデスに入り、ある者は天国に入れられるということです。

■ラザロという名前
 もう一つは、なぜラザロは救われたのかということです。ラザロは、家もありませんでした、家族もありませんでした。仕事も、財産も、健康な体も、友達もありませんでした。私たちに何かがないと言っても、何かしらあるでしょう。ラザロは本当に何も持っていなかったのです。何もなかったから救われたのでしょうか。
 彼が持っていたものがたった一つだけありました。それは、ラザロという名前が語っているものです。
 このたとえ話には、ほかのたとえ話と違って名前が出てくるのです。ラザロという名前です。ラザロの意味は「神は助け」です。イエス様が、この貧しい男に名前をつけて呼んでくださったのは、大きな意味があると思います。
 ラザロは、神様が助けてくださる、という信仰を持っていた。ラザロにあったのは、それだけであった。その信仰によって救われたと、イエス様はラザロという名前で示そうとしたと思うのです。
 先週、不正な管理人のたとえ話を読みました。その管理人は、永遠の住まいを求める人の姿でした。何としてでも、イエス様を友として、それを求めて、永遠の住まい、天国に入るようにという教えでした。ラザロは、確かにイエス様を友として、永遠の住まいに迎え入れられたのです。ラザロも、15章で語られた、失われた1匹の羊、失われた1枚の銀貨であり、放蕩息子であったのです。
 それが、イエス様の話を聞こうとイエス様のもとにやってきた、「取税人、罪人」の姿でした。
 金持ちはどうでしょう。この金持ちとは、イエス様のもとにやってきた取税人、罪人を受け入れ、食事を共にしていたイエス様につぶやいたパリサイ人、律法学者でした。自分たちこそ正しいと信じ、イエス様の回りに集まった取税人や罪人を見下していた。けれども、思いもよらない、どんでん返しがあったのでした。
 金持ちは、何でも持っていましたが、たった一つ、神様の助けなくして、そのような信仰なくしては天の御国に入れないことを忘れていたのです。すべてを持っている、家族も、仕事も、財産も、健康な体も、友達も、そして、人から尊敬を受けていた。それらが、死に際して何の助けにもならなかったのです。

■十字架
 イエス様は、ラザロが受けた苦しみ、悲しさ、孤独を最もご自分のものとなさったお方でした。着ているものを奪われ、からかわれ、つばきをされました。むちでたたかれ、目隠しされてなぐられ、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞かれました。侮辱され、嘲弄され、重い十字架を背負って、カルバリの丘へと黙々と歩まれました。そして、私たちの罪をその身に引き受け、十字架にかかってくださったのです。
 そのイエス様の十字架の死は、ラザロのため、パリサイ人のためでもあり、そして私たち一人一人が天の御国に入れていただくためだったのです。十字架こそ私たちの救いなのです。
 何でもあるように見えて、何一つ持っていないことに気づいていない人たち、私には神様の助けなんかいらないと思っている人たち、そして、いま苦しみの中にある人たち、希望もなく歩んでいる人たち、自分なんか何の価値もないと思っている人たち、そのような人たちを救うためでした。
 私たちは、日々神様の助けが必要です。「神は助け」、神様の助けによって毎日を歩んでいける。そして天の御国に入れていただける。そのことを感謝して今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年10月7日