ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年9月30日


2007年9月30日 主日礼拝説教
「まことの友」(ルカによる福音書16章1節〜13節)

■はじめに
 このたとえ話は、「不正な管理人」「抜け目ない管理人」と言われ、難解なものとして知られています。それは8節の「不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」とはどういうことなのか、なぜ不正な管理人がほめられるのか、また9節の「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」も、納得できないことばだからです。
 解釈、説教はさまざまに分かれていますが、今日はそれらを参考に、教えられたことをお話ししたいと思います。

■管理人への訴え

1イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。

 「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた」とありますので、これは、15章から続いていると考えられます。15章では、「失われたものが見つかった」というテーマで3つのたとえ話が語られていました。それはパリサイ人、律法学者に対してでした。この16章は弟子たちに語られました。16章は、「富」をテーマに、今日のたとえと、次回お話ししようと思っている「金持ちとラザロ」のたとえが語られます。
 さて主人は、自分の財産を管理させている管理人に対する訴えを聞きます。ある人が「主人の財産を乱費している」と訴えたのです。
 ある金持ち(エルサレムにいたでしょう)は、地方にオリーブ畑、小麦畑を持っていました。その財産をだれかに貸して、管理人を立てたのでした。管理人は、毎年、収穫物(油と小麦)のなかから主人に送る分と、自分の報酬を受け取りました。しかし、作物は毎年収穫が一定しているわけではありません。それで、次年度の収穫が少なかった場合に備えて、その分も幾分か上積みして、管理人は貸した人と契約をしていました。ですから、そのような保険の分と管理人の報酬を合わせて、オリーブ油の場合、50%増しの契約、小麦の場合は20%増しの契約であったと言われています。
 それで何も問題はありませんでした。しかし、今年は問題が起こりました。ある人から「主人の財産を乱費している」という訴えがあったからです。それがどのような内容なのか想像するしかありませんが、管理人は、自分の報酬をたくさん取りすぎて、それが目に余ってしまったのか、あるいは豊作が何年も続いたので、管理人の取り分が主人より多くなってしまったのかもしれません。あるいは管理人の浪費が目立ったのかもしれません。

■主人は管理人を解雇する

2主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』

 有能な管理人であり、信頼していた管理人が訴えられました。主人は考えたでしょう。もしかしたら、自分の財産を取り崩しているかもしれない。そういえば、このところ会計報告がきちんとされていない。管理が不忠実である。
 主人は、解雇することにしました。解雇通知が管理人に送られます。次の管理人が着任するまでに、「どのような契約になっているのか、だれに貸しているのか、自分の土地がどうなっているのか、今までいくら私に小麦や油を送ったのか」。そのような報告書を作り、それを出すようにと言い渡したのでした。
 即日解雇ではなかったのが幸いしました。管理人にとって少しの時間が与えられました。その間を利用して将来への備えをしました。管理人は、解雇後の生活を考えることができました。

3管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。4ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』

 彼には、自分のものは何もありませんでした。この体さえあればなんとかなる、というわけでもありませんでした。彼は、自分の才覚でなんとかしなければなかったのです。
 それで、失業したときに自分を迎えてくれる人を作っておこう。それには、いま貸している人たちに恩を与えておけばよい、と考えたのです。

■証文の書き換え
 管理人は、土地を貸していた「債務者たちひとりひとり」を呼び出し、証文を確認します。
 1人は「油(オリーブ油)100バテ」でした。1バテは37リットル(欄外注)、3700リットルになります。それが1年分だったのでしょう。それを、半額の「五十」に書き換えさせます。言われた人はびっくりしたでしょう。うれしかったでしょう。50バテを納めれば、残りの50バテは自分のものになるのですから。
 「小麦百コル」の人は、20%引きの「八十」になりました。1コルは370リットル(欄外注)です。3万7千リットルになります。これも1年分であったでしょう。
 新しい証文に書き換えた量、油50、小麦80は、主人に渡す最低限の量だったと思われます。いわば、それが主人の元金でした。管理人は主人に損をさせないで、自分の取り分をすべて0にしてしました。

8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

 主人は、管理人から送られてきた会計報告を見て、自分はさほど損をしたわけではなかった。利益は得られなかったが、元だけは受け取ることができたことを知りました。それと、管理人がした証文の書き換えという「抜けめなさ」を知って、主人はほめたのでした。
 主人は何をほめたのでしょうか。主人は管理人の不正を認め、それをほめたのでしょうか。主人は彼の「抜けめなさ」をほめたのでした。
 「抜けめない」はどうでしょうか。副詞として使われているのは、この箇所だけですが、形容詞ではたくさん使われていて、「思慮深い、賢い」という意味です。岩の上に家を建てた賢い人や、花婿を迎えた10人の娘のうち油を用意していた5人の賢い娘などに使われています。
 主人は、不正をほめたのではなく、すぐに対応した管理人の利口(口語訳)、賢さ、思慮深さをほめたのでした。これが、このたとえの言いたかったことです。

■たとえの意味

9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

 9節が、たとえ話のまとめ、種明かしとなります。ここで、たとえに使われたことばがどういう意味であったかが明らかになります。
 「金持ちの主人」は神様です。
 「不正の富」を使って友人を作った「管理人」は、私たち人間です。
 「不正の富」とは何でしょうか。それは、今、私たちに預けられているもの、自分の決断、才覚によって自由にできるものです。
 「彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎える」とは、「神様が永遠の住まいに迎える」ということです。
 そして、最後になりましたが、自分のためにつくる「友」とはイエス様です。
 「永遠の住まいに迎えられる」ためにはどうするのか。それが10節以下に教えられているのです。

10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

 「小さい事」とは、たとえで言ってきた「不正の富」です。11、12節でこう言われています。

11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。12また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

 「不正の富」とは何だったでしょうか。それは、いま私たちに預けられているもの、自分の決断、才覚によってやりくりできるものです。そしてそれらは、神様に属するものでした。12節では「他人のもの」と言われています。
 それはこの世の富もあるでしょう。そればかりではありません。私たちの職業、私たちの家庭や地域社会もそうでしょう。神様は、私たちに預けておられるものを忠実に管理し用いなさいと言っておられるのです。
 10節「小さい事」に忠実な者、11節「不正の富」に忠実な者、そして12節で言われている「他人のもの」に忠実な者、それらはみな、同じことを言っています。
 小さい事、不正の富、他人のものに忠実な人には、それぞれ10節「大きい事」にも忠実、11節「まことの富」を任せる、12節「あなたがたのもの」を持たせると言うのです。

■神と富に仕えること
 最後にイエス様は、こうおっしゃいます。

13しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

 2人の主人、神と富(この世の事でしたね)という2つに仕えないで、神に仕えることを第一としなさい、と教えられるのです。なぜでしょうか。「大きい事」「まことの富」「あなたがたのもの」は永遠の住まいにつながっているからです。
 この世のものがいつかなくなるものであることを覚え、それを忠実に使って、「永遠の住まいに迎えられる」ように備えたいと思います。私たちは、この世のものに対して忠実な管理人になるように言われているのです。
 私たちは、いつかこの世のものの管理者としての任務を解かれます。そのときまでに、この世のものを管理して賢く用いて、永遠の住まいへの準備をするのです。

■まことの友
 イエス様は9節でこう命じられました。「自分のために友をつくりなさい」と。
 「友」とは、イエス・キリストのことでしたね。イエス様の友となる。何としてでもイエスの友となる。そうでなければ永遠の住まいに迎え入れられないからです。そう熱心に願ったのは、取税人、罪人たちでした。イエス様を友としなかった者はパリサイ人、律法学者でした。
 イエス様は、私たちのまことの友となってくださいました。イエス様は、私たちの罪を負い、私たちの罪が罰される代わりに十字架にかかって、代わりにその罰を受けてくださいました。私たちの罪は赦されたのです。

 新聖歌426
世には良き友も/数あれど  キリストにまさる/良き友はなし
罪人のかしら/われさえも  友と呼びたもう/愛の深さよ
ああ、わがため/いのちをも  捨てましし友は/主なる君のみ

 イエス様を友とした者、イエス様を私たちの救い主として信じた者は、「永遠の住まいに迎えられる」のです。そのことを覚えて、感謝の思いをもって、今週も歩みたいと思います。今日の招きのことばを読んで終わります。

コリント人への手紙第2、5:1「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年9月30日