ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年9月2日


2007年9月2日 主日礼拝説教
「捜し出してくださる神」(ルカによる福音書15章1節〜10節)

■はじめに
 ルカの福音書15章は「なくなったもの、いなくなったものが見つかって喜ぶ」というテーマで、3つのたとえ話が語られています。そのうち、今日お読みした「いなくなった1匹の羊」「なくなった銀貨」の二つは、探し出してくださる神様。もう1つは11節からの「いなくなった息子、放蕩息子」は、待っておられる神様です。いずれも、神様の側でしてくださること、そして見つかったこと、帰ってきたことを喜んでくださる神様を語っています。
 最初は100匹の羊の中から一つが、そして10枚の銀貨のうちの一つが、最後が2人の息子の1人が捜し出されます。だんだんと焦点がしぼられていき、神様の求めがただ1人、私やあなたにあることを感じさせるたとえ話です。今日は、そのうちの最初の2つを見てみましょう。

■パリサイ人のつぶやきから
 たとえ話が始まったきっかけは、「取税人、罪人たち」が来て、イエス様の話を聞こうとしたことからでした。
 取税人とは、ローマに代わって、税金を集める人です。税金を集めることは悪いことではありませんが、彼らは、ローマの権力をバックに、決められた以上の税金を集めていました。そして、その差額を自分のものとしていたのです。だれも文句を言えず、逆らうことができなかったのです。「取税人」は、イスラエルで一番嫌われている人たちでした。
 そのほか、罪人と言われていた人たちがいました。律法を守らない、守ることができない人たちでした。そのような人たちがここにいて、イエス様と食事をしていたのです。
 それを見た「パリサイ人、律法学者たち」がつぶやくのです。イエスという者は、「罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と。パリサイ人、律法学者たちは、自分たちこそ正しい者、神の教えを守っていると思っていたのでした。
 当時、イエス様のようなラビと言われている人は、このような罪人たちとつきあわず、まして食事などとんでもない話でした。イスラエルでは良く食事をいっしょにしますが、それは、その人を仲間として受け入れること、最も親しい間柄であることを意味していました。

■百匹の羊
 イエス様のたとえ話が始まりました。4?7節、羊と羊飼いの話です。旧約聖書は羊をイスラエルの民、羊飼いを神にたとえることが多くありました。たとえば、詩篇のなかで最も有名なものとして知られている詩篇23篇は、「1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」とあります。
 私たちは、羊を飼うとはどういうことか想像できませんが、イスラエルでは羊がいること、その辺を羊飼いと羊が歩いていることは日常的な風景であったのでした。それは今もそうです。
 羊は、羊飼いがいないと生きていけない動物だと言われています。どこに草があるのか、水があるのかわかりません。羊は近眼だと聞いたことがあります。えさを食べることに夢中になると、群れから離れ、気がついたとき迷子になってしまうのです。イスラエルは山と荒地です。羊が羊飼いから離れることは死を意味していました。
 8月に、教会のピクニックでマザー牧場に行き、羊のショーを見ました。世界中で飼われているたくさんの種類、20種くらいはいたでしょうか。それらの羊が1匹ずつ、舞台に上がって紹介されました。種類ごとに1匹ずつでしたから区別できますが、あのどれかの種類が百匹もいたら、もう何がなんだかわかりません。
 それが、百匹のうちの「一匹」がいなくなったのです。羊飼いはすぐに、捜しに行きます。名前を呼んで捜します。羊飼いは、飼っている羊の顔を覚えていて、1匹1匹を名前で呼ぶほど愛していました。
 危険な谷間に落ちているかもしれません。けがをしているかもしれません。疲れ切ってしゃがみ込んで、鳴くこともできなくなっているかもしれません。

■見つかった1匹の羊
 羊飼いは羊を見つけ、羊をやさしく肩にかついで帰るのです。そしてどうしたでしょうか。

6帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 自分の財産が戻ったということで喜んでいるのではありません。そうであるなら、「友だちや近所の人たちを呼び集め」て、たった1匹のために、こんなに大騒ぎをしてお祝いをしないでしょう。99匹を残してまでも1匹を捜す。それは、その一匹の羊へのあわれみと愛の現れです。これほど羊は価値があるということです。

7あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 「悔い改める必要のない九十九人」と言ったのは、パリサイ人に対する皮肉でした。悔い改める必要のない人など、だれもいないからです。
 イエス様が取税人たち罪人たちと食事をするのは、この羊飼いと同じように、失われた罪人を捜し出そうとする熱心と、イエス様の大きな喜びにほかならないのでした。

■失われた1枚の銀貨
 もう一つのたとえ話です。

8また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

 この銀貨(1ドラクマ、欄外注)は、1デナリ銀貨(1万円くらいでしょうか)に相当すると言われています。女の人は、それを10枚セットで持っていたようです。1枚が欠けると残り9枚では価値がなくなってしまう。
 その1枚がなくなってしまったのです。あかりをつけて捜します。イスラエルの家は、1つの丸窓しかなかったと言われています。家の中は暗かったのです。床はワラ敷きでした。ほうきではいて捜します。そして、とうとう銀貨が見つかりました。

9見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 これもまた、なんと大げさなことでしょうか。財布に入れておしまいのはずです。人を呼んで、自分の銀貨が戻ったことを大騒ぎする必要がないのです。
 しかし、女の人はそうしたのです。女の人にとっては、銀貨はそれほど大切なもの、価値あるものだったからです。

10あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 取税人、罪人とつきあうことに対する非難から始まったたとえ話でした。その人たちの一人が悔い改めるなら、それが天で「喜びがわき起こる」のです。

■失われている私たち
 私たちは失われています。迷子になっている者たちです。迷い出た羊や、なくした銀貨のように、本来、私たちは神様のものであるのに、そこから離れ、迷っているのです。
 そして、私たちは捜されている者たちなのです。羊は羊飼いのところに、銀貨は持ち主のところへ帰りました。神様は、今も失われた私たち、1匹の羊を、なくなった1枚の銀貨を捜し続けていてくださいます。
 神様は、帰る所、帰る方法がわからなくなっていた私たちのために、イエス様をこの世に生まれさせてくださいました。イエス様は、私たちを捜し出すために、この世に来てくださいました。
 イエス様は、私たちの罪を負って十字架で死に、私たちが神様のもとに帰る道を備えてくださいました。私たちは、そこを通って帰ることができるのです。今日の招きのことばです。

ヨハネの福音書14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

■ジョン・ニュートンのこと
 アメージンググレイス、新聖歌233番をご存じでしょう。
  「驚くばかりの 恵みなりき
   この身の けがれを 知れるわれに」
 この詩を作詞したジョン・ニュートンは、幼い時にクリスチャンの母を失い、家出し、そして奴隷船に乗り込み、船長までになりました。何度もアフリカに渡りました。ある時、奴隷をたくさんつんで、アフリカからの帰りの船、嵐にあいました。もう助からないかもしれないという状況の中で、お母さんが祈っていた神様を思い出します。初めて心から神に祈りました。「神様、助けてくださったら、助かったら私の人生をおささげします」と。
 無事に帰国したニュートンは、奴隷船の船長をやめ、牧師となりました。82歳で生涯を閉じますが、晩年、ニュートンは言いました。「私の記憶は薄れ、ほとんど忘れ去ってしまった。しかし、2つのことだけが今もはっきりと覚えている。1つは、私がどうしようもない罪人だったということ。もう一つは、神の恵みはそれよりも、もっともっと大きかったということです。」
 アメージンググレイスの詩にあります。「私はかつて失われていましたが、今は神に見出されました」と。
 I once was lost, but now am found.
 自分は迷える羊のように人生の道から落ちてしまって、そして帰ることがでなかった人間だった。ところが、そのように、かつて自分は失われていたのが、今、イエス様によって探し出された。
 彼は、奴隷商人でした。荒れすさんだ人生の中を迷い出ていましたが、神様に見いだされました。神様の恵みによって神様に捜し出されました。それは本当に驚くような恵みであったのです。そのことをニュートンは歌ったのでした。

■何度も捜し出してくださる神様の恵み
 いなくなった羊は、捜し出した羊飼いの肩に背負われて、自分の主人のいるところ、自分の寝床に帰りました。なくなった銀貨は本来の持ち主である女の人の財布に戻りました。
 神様が探し出し、救い出してくださったその人は、また迷うことがあるかもしれません。たといその人が迷ったとしても、1度神様に見つけられた人は神様のものです。神様は何度も探し出し、必ず見つけ出してくださり、確かに救い出してくださるのです。


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