ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月15日


2007年7月15日 主日礼拝説教
「苦しみからの解放」(ルカによる福音書13章10節〜17節)

■はじめに
 今日の箇所は、安息日にいやしを行った記事です。聖書には、イエス様が安息日にいやしを行ったことが5回出てきます。ルカの福音書では、すでに見ました6章で、安息日に弟子たちが麦を摘んで食べ、そのあと別の安息日に会堂で手のなえた人をいやされた記事が出てきます(これは3つの福音書にあります。マタイ12章、マルコ2章)。
 ヨハネの福音書だけにあるものが2つ。ベテスダの池のそばで、38年間中風にやんでいた人をいやされた(ヨハネ5章)ことと、生まれつき目の見えない人をシロアムの池で洗っていやされた(ヨハネ9章)記事です。
 これで3つです。あと2つはルカの福音書だけにあるものです。今日の箇所である腰の曲がった人のいやしと、ルカ14章の水腫をわずらった人のいやしです。これらは、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとした動機の一つになっています。
 それほど、ユダヤ人にとって安息日を守るということは大切な規定だったのでした。安息日規定とは、十戒の4つ目「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」をどう守るかを定めたものです。
 安息日は、創造の7日目の休みを示し、またイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを喜ぶものでした。ですから、安息日は、自由な思いで私たちの体を休めること、そして心と魂を休める日です。そこには強制がないのです。
 しかしユダヤ人たちは、これを守るための細則をもうけたのです。仕事をしてはならない。すべての仕事についてどこまでできるか、してはいけないかを細かく規定したのです。それが極端になって、たとい良いことであっても、安息日だとしてはいけない、むしろ見ていたほうがよい、という感じになってしまったのでした。
 病をいやすことは仕事であって、安息日にはしてはいけないことになっていました。しかも今回は、それが会堂の中で起こっていたのでした。

■安息日の会堂で

10イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。11すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。

 イエス様は、会堂で教えることになりました。イエス様が会堂に来てみると、そこに「病の霊につかれた」女の人が礼拝に来ていました。女の人は「腰が曲がって、全然伸ばすことのできなかった」のです。
 この女の人は、イエス様にいやしていただこうと思ってこの会堂に来ていたのではないかもしれません。この人は、毎週会堂に足を運んでいたのであり、この日、ちょうどイエス様に出会ったのではないでしょうか。そういうことであれば、このいやしの奇蹟は、イエス様のほうからの、この女の人に対するあわれみの思いから出ているのです。
 女の人は、病にあっても信仰を失うことなく、病のために神様をのろうこともなく、歩くことも不自由になっても、会堂にやってきて、神様の恵みを礼拝において受け取っていたのでした。

■イエス様がいやされる
 「腰が曲がって」は、ギリシャ語で「全く頭をかがめる」ということばです。文字どおりにとれば、90度以上折れたような状態であったのかもしれません。「全然伸ばすことのできない」、上を向くことができないのでした。それは、なんとつらい、態勢であることでしょう。
 しかも、18年間もそのままであったのでした。どんなに苦しかったことでしょう。どんなに不便だったでしょうか。

12イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

 イエス様は、この女性の苦しい状態を見て、あわれみ、この女の人を呼び出し、「あなたの病気はいやされました」と言われました。イエス様の宣言ですから、このことばによって「病の霊」が追い出され、そのあと、病をいやされるために腰の上に「手」を置いたのです。「手」は、ギリシャ語で複数形です。イエス様は両手を置いていやされたのです。この女の人をいたわるような情景を思い浮かべることができます。
 イエス様のいやしのわざによって、女の人の腰がたちどころに伸びました。いやされたことを知った女の人は、下を向けっぱなしであった顔を上に向けて、いやしてくれたイエス様を見ました。彼女は、イエス様に感謝するのでなく、神様をあがめたのです。イエス様に神様の力を見たのでしょう。「今日、会堂に来て、病がいやされた、神様、感謝します」と。

■会堂管理者の憤り

14すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」

 これを見ていた「会堂管理者」は、このようなすばらしいことが起こっても気を悪くしました。1つは安息日の律法を破ったこと。2つは、自分がかかわっている、自分の管理のもとにある礼拝でこのようなことが行われたからでした。
 会堂管理者はそのことを、イエス様にではなく、どういうわけか群衆に言いました。会堂管理者は、イエス様に直接言うことができませんでした。管理者は、イエス様の威厳に打たれたのです。イエス様の力を否定できなかったのでした。ですから管理者は、安息日でない日に「イエス様に治してもらいなさい」と言うのです。
 「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです」と。もう1日待ってもいいのではないか。死ぬわけではないのだから。もう1日ぐらい苦しみに耐えてもいいのではないか。明日にしなさい。そうすれば律法違反にならないから。

■アブラハムの娘
 なんと杓子定規な言い方でしょうか。これに対してイエス様が言います。

15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。16この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」

 イエス様は「この女はアブラハムの娘なのです」と言われました。同じ主を礼拝する、いわばいちばん近くにいる信仰仲間でした。それをイエス様は指摘されたのです。「この女はアブラハムの娘なのです」と。
 会堂での礼拝は、当時、女性、病の人たちは後ろの席に着くようになっていたようです。この女の人も、熱心に会堂に集いながらも、そのような目にあっていたと思われるのです。
 イエス様は、その「アブラハムの娘」が「サタンによって縛られている」とおっしゃいました。
 安息日の律法は、家畜のいのちのためには例外になっていました。家畜を連れ出し、水を飲ませることができたのでした。そのことを指摘して、イエス様は言われました。動物さえ小屋の束縛から解放させるのに、サタンの束縛から解放させるいやしに反対するのはどういうことか。家畜と娘はどちらが大切か。しかもこの人は「アブラハムの娘」ではないか。
 しかし、ユダヤ人たちは、同じ礼拝者への愛を欠いていました。アブラハムの娘への愛の思いに欠けていたのでした。苦しみに同情し、その人が救われたことを喜ぶことができなかったのでした。
 イエス様のみこころは、直ちに悲惨さから解放されることでした。この女の人は「十八年もの間サタンに縛られていた」状態にありました。女の人が安息日にいやされ、解放されることはふさわしいことでした。
 イエス様は、そのような人たちを「偽善者たち」と呼びました。偽善者、それは、自分たちが解放されていないのに、解放されているかのように振る舞っていたからでした。みな、解放されなければならないものを持っているのです。会堂管理者たちは、そのことに気づかないのでした。
 イエス様は、偽善者について、こう言っています。

マタイの福音書7章「3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 梁とは、屋根を支える柱のことです。それが自分の目の中にあるのに気づかないのです。ですから……

4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

■罪からの解放

17こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

 人々は、イエス様のなさった苦しみからの解放、罪からの解放のみわざを喜んだのでした。
 私の携帯電話に出会い系のサイトが届いています。中国からの食品で、うなぎに入っていた発ガン性物質が問題になりました。中国だけではありません、日本でも豚肉を牛肉と言ってごまかしているのです。
 それらの罪は、その人たちだけではありません。私たちの心の奥底を見れば、すきあらば、見つからなければ罪に手を出してしまう私たちではないでしょうか。
 聖書は原罪と言って、すべての人が持っている罪を教えています。イエス様は、この罪から私たちを解放するために、自らサタンに縛られました。
 サタンは、まず12使徒の一人、ユダに入り、ユダを縛りました。ユダはイエス様を裏切りました。そのことをイエス様は黙って受け入れたのです。そしてイエス様は十字架の死に赴いたのです。
 十字架の死によって、イエス様は人間の罪の刑罰を要求される神様に対して、代わりに罰を受けられたのです。そして、死んでよみがえられたことによって、サタンの束縛から私たちが自由にされたことを明らかにされたのでした。
 私たち、サタンに縛られている人に、イエス様からあわれみの心が届けられるのです。
 最後に先週木曜日のパワーアップ集会で教えられたことを紹介して終わります。おゆみ野キリスト教会で月に1回、近くの牧師、信徒とともに学びと祈りの時を持っています。そこで、講師の堀越暢治先生に教えてくださったことです。
 救いの5ポイントです。

  1. 主の前にすべての人は不合格
  2. 合格はお情けによる主の恵み
  3. お情けは皆にはやらぬ主のみつげ
  4. お情けを拒む人にも主は与え
  5. お情けをもらった者はもう安心

 イエス様のあわれみをいただいた人、主イエス様による赦しを受け入れた人は、もう安心なのです。その安心を与えるために、イエス様が来てくださったのです。
 18年間、腰の曲がった人がいやされて神様に感謝したように、私たちにも救いが与えられたことを感謝して歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月15日