ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月1日


2007年7月1日 主日礼拝説教
「待ち続けておられる神」(ルカによる福音書13章6節〜9節)

■はじめに
 近くの萱田地区公園に散歩に行ったときのことです。道に亀がいて思わず踏んでしまいそうになりました。だれかに踏まれたらかわいそうと思って、池にはなしてあげました。良いことをしたのか、あるいはせっかく亀が池から上がったとしたら、かえって亀に悪いことをしたかもしれません。
 でも、きっと良いことをしたに違いない。そのうち亀が恩返しに迎えにきてくれるかもしれない、と思ったりしてしまいます。
 家内はつばめを助けたことがあるそうです。ある事務所のところで、羽にガムテープをつけられて飛べなくなっているツバメを見つけました。それをはがしてあげると、ツバメは遠くに飛んできました。家内は、おやゆび姫になったような気分になったそうです。
 良いことをしたら良い報いが、悪いことをしたら悪い報いがある。そういう考え方を因果応報といいますが、きょうのイエス様のお話の中にも、その考えが出てきます。

■実を結ばないいちじくの木
 これは、ルカの福音書だけに出てくるたとえ話です。

6イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

 「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えました。」なんでぶどう園にいちじくの木を植えるのですか。実がならないのはそのせいではありませんか、と考えてしまいそうですが、そんなことはありません。
 ぶどう園にいちじくの木の木を植えることはよくあったそうです。いちじくは、余り世話をしなくても、どのような土地でも実を結ぶことができる強い木だからです。つまり、どこにでも植えられた木であったのでした。
 ホームページを見ると、「いちじくは、よほど管理がずさんでなければ毎年同じように実がなります。いちじく栽培には農薬はほとんど使わない。安心・安全そのものの果実です」とありました。
 そのぶどう園の主人が、植えたいちじくの木に3年たっても実がならなかったので、いちじくの木を切り倒すようにと命じるのです。いちじくの木はどのくらいで実がなると思いますか。1年で実ると言われています。ホームページに「1年目のいちじくの木も実をつけるが味はいまいち。2年目以降の実を出荷します」とありました。
 いちじくの木の葉は、繁ったらよい木陰になります。その良さはあるのですが、実を期待して待っていたときに実がならなかったとしたら、ただの場所塞ぎになってしまいます。そうであれば、切り倒してしまうのが当然の木なのです。
 しかも、このいちじくの木はぶどう園に植えられていました。放っておいても実を結ぶのに、3年も手をかけていた。それでも実を結ばなかった。もうこれ以上、世話をしても肥料をやっても無駄でしょう。かえって、このいちじくの木のために、まわりのぶどうの木まで悪い影響を与えてしまう恐れがあるのです。それで「これを切り倒してしまいなさい」ということになったのでした。
 ぶどう園の番人は、切り倒してしまえと言った主人に、「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と猶予を願うのです。

■ぶどう園の主人と番人といちじくの木
 ここでぶどう園の所有者は、神様と考えていいでしょう。そうすると、ぶどう園の番人はイエス様ご自身であります。その神様が、3年待っても実がならないいちじくの木を切り倒すようにとお命じになり、ぶどう園の番人のイエス様が、もう一年そのままにしてくださいと言うのです
 それでは、「切り倒される」いちじくの木は何かということです。ぶどうの木、いちじくの木は、預言者によってイスラエルの国にたとえられました。ぶどうがなる、いちじくがなること、それはイスラエルの国が繁栄している、神様に守られていることにたとえられました。ですから、実のならないぶどうの木、いちじくの木があったなら、それはイスラエルの民が神様に対して不信仰であることのたとえとして語られたのです。
 ここでもイエス様は、目の前にいるイスラエル民族をいちじくの木にたとえられました。イスラエルは、今まで長い間、実を結んでも当然のように神様から恵みをいただいてきました。今、救い主としてイエス・キリストが神様から遣わされました。しかし、彼らはイエス様を受け入れようとしなかったばかりか、救い主であるイエス様を殺してしまうのでした。
 イエス様が十字架にかかられたあと、イスラエル民族は神様が期待する実を結ぶことができたでしょうか。彼らは紀元70年に、ローマによって国が滅ぼされてしまったのでした。そして、第2次世界大戦が終わる1945年まで、彼らには祖国がなかったのでした。
 このように、このたとえは、イスラエル民族の歴史として読むことができます。しかしこのたとえ話は、イエス様が、イスラエル民族だけではなく、異邦人である私たちにも語ったたとえ話でした。

■悔い改めないなら
 それを知るためには、このたとえ話を始めたきっかけを見る必要があります。13章1?5節です。

1ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。2イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。3そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。4また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。5そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 ここに2つの話が出てきます。悲惨な事件です。1つは、ガリラヤ人がエルサレムの神殿で犠牲のいけにえをささげていた時に、どのような事情があったのかわかりませんが、総督ピラトがローマ兵を送って、そのガリラヤ人を殺してしまったというのです。「ガリラヤ人たちの血が、ガリラヤ人たちのささげるいけにえについてしまった」のです。ローマの暴挙と、神聖な神殿といけにえが血で汚されたというのです。
 「イエス様、どう思いますか。このガリラヤ人は、何か罪があったからこのような災難にあったのでしょうか」と尋ねたのです。
 ある災害にあったとき、それがある罪に対する神の罰だとする考えが、当時の人々にありました。
 あるとき、生まれつき目の不自由な人に出会ったとき、弟子たちはイエス様に、この人の目が見えないのはこの人の罪によるのですか、それとも親の罪のゆえですか、と尋ねたことがありました。
 不幸があった人に、どうしてそうなったのか。その人が特別に罪深い人たちであったと考えてしまう。何か隠している罪があったのではないかと考えるのです。
 旧約聖書にヨブ記があります。突然の災難にあったヨブは、私は何も悪いことをしていないのに、どうして神様はこんなつらい目にあわせるのかと神様を訴えます。ヨブを見舞いに来た友人たちは、神様は正しいお方なのだから罪もないヨブにこんな災いにあわせることはない。自分の隠している罪を認め、悔い改めて神様にゆるしていただきなさい、と問いつめます。ヨブは、「いや、私はこんなひど目にあうような罪は一切犯していない」と言い張るのです。そんな論争が続くのがヨブ記です。
 災難にあった人々が、そのような災難に遭う当然の理由があったと思う。悪いことが起きるのは、悪いことをしたからだという因果応報の考え方です。
 イエス様は答えられました。人の罪をあれこれ詮索するのはやめなさい。彼らが特に罪深かったわけではありません。不幸にあった人も、不幸にあわなかった人も同じように罪があるのです、と教えられたのでした。
 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
 次いでイエス様は、シロアムの塔が崩れ落ちたときに死んだ18人のことを言います。当時、このような事故があったのでした。彼らに罪があったからなのか、そうではない。災害にあって死んだ人も、そうでない人も、あなたがたもみな罪人であって、その罪のゆえに滅ぶべき人たちなのです。だから「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と言うのです。

■代わりに切り倒された番人
 その話を受けて、今日のたとえ話になります。キーワードは「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」です。「あなたがた、みな」です。
 神様の前に出なければならないのは、イスラエル民族だけではない。すべての人たちです。いちじくの木はイスラエル民族と同時に、私たち自身なのです。
 ぶどう園の番人は、切り倒してしまえと言った主人に、「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」と願いました。番人は、私に免じて赦してくださいと、主人に願います。
 3年間、番人は何もしなかったのではありません。それこそ、なかなか実のならないいちじくの木への思いは深かったと思います。愛情をそそぎ、肥料を与え、なんとか実がなってほしい。ご主人の期待に答えてほしいと世話をしたと思います。
 番人は、このたとえ話を話されているイエス様ご自身でした。イエス様は、このお話をなさってから、1年以内に十字架にかかって死んでしまわれるのです。
 いちじくの木をかばった番人が、どうしてもいちじくの木に実がならない、そのいちじくの木を守って、代わりに番人自身が切り倒されることになってしまったのです。切り倒されても仕方のないいちじくの木だったのに、イエス様が代わりに切り倒されてしまったのです。
 イエス様はついに実を結ばなかった、悔い改めなかった人たちのために十字架上で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」自分たちが切り倒される代わりに、救い主であるイエス・キリストを切り倒してしまおうとする人たち。その人々のために、イエス様は罪の赦しを祈り続けるのです。
 いちじくの木を守ろうとするイエス様の思い、それはご自分が死ぬようなことになろうとも、それを守ろうとする愛でした。実のならないいちじくの木の代わりに、ぶどう園の番人が、イエス様ご自身が切り倒されたからです。
 私たちはいま、実がならない者たちの代わりにイエス様が代わって切り倒されたことを信じるように求められているのです。

■もう1年
 もう一つのこと、それは番人が願った「もう1年」は、イエス様が十字架につけられた以降の、今の時代を表しています。

ペテロの手紙第2、3章9節「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 私たちが私たちの罪のゆえに滅ぼされないのは、主イエス様が私たちのとりなし手として、私たちの代わりに切り倒された者として神様の右の座にいてくださるからです。そして、神様ご自身も、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。」
 しかし、その待ち時間も永遠ではありません。やがて最後の審判と言われる時がやってきます。神様の時が満ちたなら、その時がきたら、イエス様が代わりに切り倒されたことを信じ受け入れなかった木は、切り倒されてしまうのです。そのときまで、私たちはしっかりとイエス様につながり、実を結びたいと思うのです。

ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年7月1日