ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年4月8日


2007年4月8日 主日礼拝(イースター)説教
「復活の主イエス・キリスト」(ルカによる福音書24章13節〜35節)

■はじめに
 今日はイースターです。クリスマスと並んで大切な祝祭日でありますが、クリスマスのように、毎年日付が決まっているわけではありません。どのように決まるかと言いますと、春分の日3/21が過ぎてから、初めての満月の日の、次の日曜日ということになっています。今年は先週の4/3(水)が満月でした。
 その日曜日の明け方早く、女たちがイエス様のお墓に行きますと、墓の入口をふさいであった大きな石がころがされていて、そこにあったイエス様の体がなくなっていました。途方に暮れている女たちに、輝く衣を着た御使いが近づいてきて、「イエス様は生きておられる、よみがえられたのです」と告げたのでした。驚いた女たちは、そのことを弟子たちに知らせて回りました。
 女たちから話を聞いたペテロとヨハネが走って、墓まで見に行きました。二人は「墓に入りました。そこに、イエス様の体を巻いていた亜麻布が置いてあり、イエス様の頭に巻かれていた布切れが、亜麻布から離れた所に巻かれたままになっているのを見た」(ヨハネ20章)のです。
 彼らは、イエスさまの体が墓からなくなってしまったことを、その目で見ました。しかし、イエス様が復活されたということをまだ信じることができませんでした。ペテロたちは、そのまま不思議な思いを抱いて帰って行きました。その不思議な話は、その日のうちに弟子たちの間に広まりました。
 さて、きょうお読みしましたルカ24章のところは、ちょうどその日の午後に起こったことでした。

■共に歩んでくださるイエス様

13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

 この二人の弟子は道々、この日の朝に起こった不思議な出来事を話し合いながら、エマオという村に向かって歩いていました。その弟子の一人の名前が記されています。18節にある「クレオパ」です。もう一人の名前は書かれていません。二人は、イエス様が十字架にかけられたエルサレムから11キロほど離れたエマオに向かって歩いていました。
 それまで、この二人がこの方こそ救い主だと信じて従ってきたイエス様が、エルサレムで十字架にかけられて殺されてしまいました。1週間前の日曜日には、エルサレム中が喜んでイエス様のおいでを歓迎したというのに。その5日後の金曜日には、イエス様が十字架にかけられてしまった。しかも、追い打ちをかけるように、それから3日目の今日、イエス様を葬ったお墓が空になっている、というニュースが入ってきました。
 わずか1週間の間に、めまぐるしく展開したこれらの出来事を、彼らはどう理解してよいか分かりませんでした。それどころか、今度は自分たちまで捕まるかもしれない。望みも消え失せた今、どうしてこれ以上エルサレムにとどまることができるでしょうか。彼らは、エルサレムから逃げ出すようにして、エマオへの道を歩いていたのです。
 二人が歩きながら、今日までの出来事を話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエス様が近づいてこられました。復活されたイエス様が近づいてこられ、彼らと共に道を歩いておられました。しかし、この時まだ彼らには、そのいっしょに歩いている人がイエス様だとは分からなかったのです。

16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

 私たちが、この地上の歩みを続けている中で、時には、このクレオパたちのように失望し、重い足取りで歩いていかなければならない時があると思います。生活のこと、信仰のこと、人間関係、自分の将来、家族のこと、両親のこと、子どものこと、いろいろなことで悩みながら歩んでいるのではないでしょうか。
 あるときは、失望させられることもあるかもしれません。15節にあるように「話し合ったり、論じ合ったりして」も、事態は一向に解決せず、光が見えてこないような時もあります。
 けれども復活の主イエス様は、私たちの置かれている厳しい現実を知ってくださり、いや、そのただ中に共にいてくださり、私たちの歩いている道に同行していてくださるのです。イエス様は私たちの近くに寄り添い、いっしょに歩いてくださっている。このことを私たちは知りたいと思います。
 復活のイエス様が私たちと共にいてくださる。これは大きな慰めであります。それが、たとい私たちがそれを実感できなくても、主は確かにそばにいてくださる。私たちの人生の同伴者として、いつも傍らにいて共に歩んでいてくださる。そのことを覚えたいと思います。

■聖書の解き明かしをしてくださるイエス様
 イエス様は見知らぬ旅人として、クレオパたちの話に入ってこられました。

17イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

 彼らが歩きながら話していたことは何だったでしょうか。イエス様の体がなくなってしまった。御使いが現れて、イエス様は生きておられると告げたことに戸惑っていたのでした。
 イエス様が復活された。そのことは、イエス様の弟子たちにも信じられない出来事であったのでした。イエス様が十字架で死なれたことは、ローマの総督ピラトと、ユダヤの議会の監視のもとで行われた確かなことでした。その死を多くの人が見届け、そして十字架から遺体がおろされ、墓に葬られるのを見ていたからでした。しかも、それはわずか3日前に起こったことでした。
 主の復活の最初の目撃者となったのが、マグダラのマリヤなど女たちであったことも、信じられない理由であったかもしれません。ルカの福音書24:11には「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」とあります。
 クレオパたちも、イエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのか分かりませんでした。19節から24節にありますように、彼らはこれまでの出来事の一部始終をイエス様に話して聞かせました。
 するとイエス様は、25、26節にあるように、「「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と言われました。そして、一つ一つ丁寧に、聖書から解き明かしてくださいました。
 イエス様ご自身が、今までの出来事の一つ一つの意味を「聖書全体」から解き明かされ、ご自分について書いてあることを説明してくださったのです。なぜイエス様は十字架にかかって死ななければならなかったのかを教えてくださり、そして、聖書の預言どおりに、3日目によみがえられたことを解き明かされたのでした。
 私たちにも聖書が与えられています。聖書が書かれた目的が、きょうの交読文の最後に書かれていました。

ヨハネの福音書20章「31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 復活されたイエス様は、クレオパたちにご自身の十字架と復活の意味を解き明かしてくださいました。そのようにイエス様は、私たちにも聖書のみことばを通してご自身を表し、十字架と復活の意味を説き明かしてくださるのです。

■食卓を共にしてくださるイエス様
 その日の夕刻、一行はエマオの村に近づきました。イエス様はまだ先へ行きそうなご様子でしたが、弟子たちは、この見知らぬ旅人を引き留めました。

29それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。

 イエス様は「いっしょにお泊まりください」という申し出に応じて、家に入られました。そして、彼らと共に食卓に着かれると、イエス様は、「パンを取って祝福し、裂いて弟子たちにそのパンを渡されました」。
 そのとき始めて、弟子たちの目が開かれました。パンをとって祝福し、そのパンを下さった方がイエス様であることが分かりました。彼らの霊の目、信仰の目が開かれたのです。
 イエス様がわかるということ、それはどういうことでしょうか。私たちは、イエス様の食卓についているなら、イエス様が分かるようになるのです。私たちの霊の目、信仰の目が開かれるのです
 先々週行われた中高生キャンプで、どうやったら信仰を持つことができますかと質問されました。教会に通い、信仰を持ちたいと願い続けるなら、いつか突然、そう願っていることがはっきり分かります、と答えました。教会に通い、信仰を持ちたいと願い続けることが大切なのです。
 イエス様は、あなたといっしょに食事をしようと思って、あなたの心の戸をたたいておられます。

ヨハネの黙示録3章「20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 彼らが、同行していた旅人がイエス様であることが分かった瞬間、イエス様のお姿は見えなくなりましたが、彼らはもう迷ってはいませんでした。彼らはすぐにエルサレムにとって返しました。「すぐさまふたりは立って」、エルサレムに戻ったのであります。
 その夜、イエス様はペテロ、ヨハネ、使徒たちがいる部屋に現れました。みな最初は、イエス様の復活を疑ったのです。しかし、イエス様のお姿をその目で見てからは、だれも疑う者はありませんでした。「イエス・キリストは死からよみがえられた。私はその復活の主をこの目で見たのだ」と、自分のいのちをかけて伝えるようになったのです。
 イエス様は、その後、何度もご自身をお示しになり、復活のイエス様を見た人々の数は500人以上、600人近くになったでしょうか。この聖書が記されたときにも、復活されたイエス様に出会って、まだ生き残っている人たちがいたのでした。
 最後に32節を読んで終わりにいたしましょう。

32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」

 私たちは、イエス様によってすくわれました。どんなに私たちの心が罪深くても、イエス様は私たちすべての罪を引き受けてくださり、私たちの代わりに十字架にかかり、私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。
 そればかりではありません。死からよみがえったことによって、私たちの最後の敵である死からも解放してくださったのです。イエス・キリストを信じる者は一人も滅びることがなく、永遠のいのちを持つという約束を与えてくださいました。
 このことを知ったとき、私たちの心はうちに燃えたのであります。そして、主の十字架と復活について知れば知るほど、ますます心燃やされ、喜びと感謝、そして大きな希望に満たされていくのであります。
 私たちの人生の最大の喜びは、この復活の主とともに歩むことです。復活の主イエス・キリストが私たちと共に歩いてくださることを覚え、復活の主イエス・キリストが、私たちにご自身を解き明かしてくださることを信じ、そして、復活の主イエス・キリストが、私たちを招いてくださることに応えて主の食卓に着く者となりたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年4月8日