ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月21日


2007年1月21日 主日礼拝説教
「あなたの神は私の神」(ルツ記1章)

■はじめに
 今日から旧約聖書はルツ記を読んでいきましょう。エズラ記が昨年11月に終わり、クリスマスに入りましたので、しばらく旧約聖書から離れていましたが、また新約2回、旧約1回のペースで説教を続けたいと思います。
 聖書には女性な名前をつけた書が2つあります。ルツ記とエステル記です。エステルはユダヤの女性でありながら、ペルシヤの王妃になった人です。
 今日、交読文でマタイの福音書1章をお読みしました。カタカナばかりで大変だったでしょうか。そこにルツの名前が出てきました。5節です。

「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、」

 ルツは、イスラエルの王となったダビデのひいおばあちゃんとして出てきます。モアブというイスラエルから見ると外国の女であった、そのような女性が、どのようにしてイスラエルの民に加えられ、マタイの1章の系図の中に書かれるようになったかを、これから4回にわたって見ていきたいと思います。

■飢饉のため、ベツレヘムからモアブへ

1さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。

 まず初めに、ルツのお話は「さばきつかさが治めていたころ」に起こった出来事であることを伝えます。この出来事があった時代は、どのような時であったのでしょうか。
 「さばきつかさ」とは、ルツ記の前にある士師記に出てくる人たちです。まだイスラエルに王様がいなかったころ、イスラエルでは、部族ごとに選ばれた族長がそれぞれの部族を治めていました。そして外国から攻められるというような大事が起こると、部族の中から有力な人が「さばきつかさ」に任命されました。その「さばきつかさ」が一時的にイスラエル全体を指導して、外からの敵に立ち向かうということをしていました。それが士師記に書かれている歴史です。ギデオン、エフタ、サムソンなどがそういう人たちです。
 そのような「さばきつかさ」がいた時代にルツが生きていました。それは、紀元前1150年ごろであったと言われています。
 そのころ、イスラエルに飢饉があったのでした。ユダのベツレヘム住んでいた(ベツレヘムとはイエス・キリストが生まれた町でした)エリメレクと妻のナオミ一家も、食べるものがなくなってしましました。そこで、エリメレクとナオミは決心して、二人の息子マフロンとキルヨンを連れて、隣のモアブの国(食べ物があるという)に移り住むことになりました。
 モアブという国は、イスラエルに死海という湖がありますが、その湖の東側にある国です。エリメレクとナオミたちはイスラエルを出て、そのモアブの国で食べ物を得ようとしました。慣れない異郷の地での生活。友人、親戚と別れて暮らす新しい生活。そこにはいろいろな苦労が待ち受けていました。

■夫の死、息子たちの死
 神様の地から離れることが果たして良かったのかと思えるような、モアブでの約10年の間に、ナオミに次々と試練と悲しみが襲ってくるのでした。
 一家4人が落ち着いたと思われたとき、ナオミの夫のエリメレクが死にました。後に残されたナオミは、どんな寂しさ、つらさを味わったことでしょうか。
 しかし、その悲しみの中にも喜ばしいことがありました。二人の息子がそれぞれ、その地のモアブの娘と結婚したのでした。長男マフロンのお嫁さんがこの書の主人公のルツ、次男キルヨンのお嫁さんがオルパでした。
 しかし、ナオミ一家の幸せはいつまでも続きませんでした。息子のマフロンとキルヨンの二人が、お母さんのナオミとそれぞれの妻を残して死んでしまったのでした。

■ナオミと嫁たちの別れ
 ナオミは、もうモアブを出て、イスラエルに帰ろうと思いました。ちょうどその時、神様は新しい情況を備えてくださっていました。

6そこで、彼女(ナオミ)は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。7そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。

 夫と息子を失ったナオミは、もう一度生きる希望を持つことができました。それは、自分の故郷を襲った飢饉が終わりを告げ、もうすでに十分に食糧があることを知ったからでした。
 ナオミは、神様がベツレヘムに帰るように導いておられることを感じました。モアブから出て、やっとふるさとに帰ることができる。ナオミは二人のお嫁さんたちを連れてユダの地へ帰ろうと出発しました。
 ところが、途中でナオミの考えが変わりました。二人の若い嫁たちをこのまま連れて行くわけにはいかない。それではあまりにもかわいそう。ナオミは、二人をモアブに帰そうと思いました。
 それでナオミは二人に、それぞれ自分の実家に帰って、再婚し、幸せに暮らすようにと熱心に勧めるのでした。しかし、ルツとオルパは、泣きながら、「お母さんといっしょに、お母さんの国に帰ります」と言うのでした。
 それに対しナオミは、自分がもう一度結婚し、息子を生む可能性がほとんどなくなっている。いっしょに帰ってもあなたたちは再婚できないからと、再度帰ることを勧めるのでした。
 これは、夫に先立たれた妻がとるべき習慣のことを言ったのでした。当時、子がないままで夫と死別した妻は、夫の兄弟と再婚し、最初に生まれた子に、死んだ夫の名を継がせることになっていました。
 ナオミの、自分のこれからのこと、自分の家のことはどうなってもよい。あなたがたが幸せになってほしい、という説得に、弟嫁のオルパはモアブに残る決心をし、自分の家に帰っていきました。

14彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。15ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」

■ルツはナオミと帰ることに
 ナオミはルツにも帰るように勧めます。しかし、ルツはその勧めにも応じないで、あくまでもナオミといっしょに行きたいと懇願するのでした。

16ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。17あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

 このことばは、人が書いた文章の中で、これほど美しいものはない、と言われているものです。
 ルツは、ここで、ナオミが信じている神様への信仰を告白したのでした。「あなたの神は私の神です」と。ルツは生ける神様に信頼し、イスラエルで生活し、そこでの神様の導きと祝福を求めたのでした。
 そして、いつまでもナオミのそばで生きたいと願ったのでした。「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです」と。ルツの信仰、ルツのナオミへの思いは、死によっても離れることができないと言うほどの関係に進んでいたのでした。
 ルツはモアブに残り、モアブの神々を信じる、モアブの男と結婚する意志などなかったのでした。
 ナオミは、そう言ってくれるルツのことばに感謝し、いっしょに生活しよう、きっと神様がよい道を備えてくださると信じて、ルツを連れて帰ることに決めました。

■ルツの信仰
 ルツは、ナオミと生活しているうちに、ナオミの信仰を自分のものとしていったのでした。苦労の多い生活の中、ナオミの信仰の姿を見つつ、ルツは自分の信仰を深めていったのでした。
 ナオミは、特に信仰について教えたということはなかったでしょう。家庭にいっしょにいるだけで、ナオミはルツに良い感化と影響を与えていたのでした。そして、それはナオミの思いを越え、ナオミの心を打つ信仰告白ができるまでになっていたのでした。
 手賀沼のそばにギリシア正教会(手賀ハリストス正教会)があります。古い教会で、教会堂が市の文化財になっている教会で、山下りんという人のイコン(キリストの聖画)が3点あることでも有名な教会です。
 そのイコンを見ようと教会を尋ねた時、鍵をあけて案内をしてくださったのは、畑仕事をしていた方でした。野田からお嫁に来た人で、結婚するまで全く教会とは関係ない人であったそうです。それが、結婚した家がハリストス教会の信徒であったことから、今ではこの教会の信徒となっているということでした。
 ナオミの信仰が、お嫁さんのルツに伝えられていったのと同じような姿を見ることができました。
 ナオミにとって、今まではルツとは嫁・しゅうとめの間柄でありましたが、これからは同じ神様を見上げ、同じ信仰に立つ人という間柄も加わりました。二人を結びつけているのは「あなたの神は私の神」という信仰でありました。
 ナオミは、血のつながった夫や息子を失いましたが、信仰によって結ばれた嫁のルツが与えられたのでした。信仰によって結ばれた嫁としゅうとめ。ナオミにとって、ルツはナオミの老後を生きる支えであり、希望でした。またルツにとって、しゅうとめのナオミといっしょに暮らすことが幸せであり、ナオミの世話を最後まで全うすることが生きがいとなっていたのでした。
 これが、いま自分に神様から与えられた道、そう信じて生きることをルツは選んだのでした。

■ベツレヘムに着いて
 二人は旅を続け、ベツレヘムまでやってきました。

19それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか」と言った。

 ベツレヘムでナオミの家は有力な家だったのでしょう。ナオミを知っていた人たちがいて、町中でナオミとルツを迎えました。
 「まあ。ナオミではありませんか」のことばに、「ナオミ、良く帰ってきました」という声と同時に、あまりに変わってしまったナオミの姿に驚きの声をあげたのでしょう。それ以上に、イスラエルでは歓迎されないモアブの女といっしょにいるナオミを見たからでしょう。
 それに対してナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」と答えるのでした。ナオミは「快い」という意味で、マラは「苦しみ」という意味です。
 ナオミはモアブの地で、夫と息子に死に別れるというつらい経験をしてきました。しかし、それとても全能者であられる主の御手をナオミは見ていたのでした。ナオミはその中で謙遜を学ばされたのでした。

21私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」

 「卑しくし」は、苦しみを通して人の心を砕かれたこと、謙遜にされたことを意味しています。これもナオミの信仰告白でありました。
 今までも苦しい目にあって来た。これから始まるルツとの生活、それは厳しく、つらいものになるであろう。しかし、そこにも主の御手が確かにあることをナオミは予感していたのでした。
 私も苦しい時、いつも支えてくれたみことばがあります。招きのことばで読みました。

詩篇119:71「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

22こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

 「大麦の刈り入れの始まったころ」、それは4月ごろのことでした。たまたま「大麦の刈り入れの始まったころ」だったのではない、神様がそのように季節に導いてくださったことを、次の2章で知ることになります。
 今週、ルツが、将来どのようなことが待ち受けているかわかりませんでしたが、ただ神様を信じて、神様に従っていく道を選んだことを覚えて、私たちも共に歩み出したいと思います。
 そして、私たちの信仰による交わりが、「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです」とまで言えるようなすばらしいものであることを覚えて歩んで行きたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月21日