ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月7日


2007年1月7日 主日礼拝説教
「神と人とに愛された」(ルカによる福音書2章41節〜52節)

■はじめに
 皆さんは有名な人の伝記を読むのはお好きでしょうか。私はいま少年少女向けの伝記物語に興味があって、いろいろな人を読んでいます。それらには、たいていその人の少年時代のエピソードが載っています。たとえば、最近読んだモーツァルトの少年時代。この人はすごい少年時代でした。5歳で最初のメヌエットを作曲、6歳でウィーンで女王様の前で演奏、7歳でバイオリンソナタを出版する、などなどです。
 さて聖書ですが、私たちの主イエス様は幼いころ、どういう子ども時代を過ごされたのでしょうか。実はそのことを知ろうとしても、聖書にはイエス様の子ども時代のことは、ほとんど何も書いていないことがわかります。イエス様についての記述のほとんどが、30歳を過ぎてからの歩みであり、それもイエス様が十字架にかかられる前の、最後の1週間のことだけで3分の1の分量を費やしているということです。
 それというのも、聖書はイエス・キリストの伝記、生涯を書くのが目的ではないからです。聖書が書かれた目的については、ヨハネの福音書でこのように言っています。

ヨハネの福音書20章「31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 聖書は、イエス様が私たちの救い主である、という一点に焦点をあてて書いているのです。

■イスラエルの少年時代
 このような聖書ですが、たった1つ、今日お読みしました箇所にだけ、イエス様の少年時代のことが書かれているのです。ルカが記した、その貴重なエピソードをごいっしょに見てみることにしましょう。

41さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。42イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、43祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。

 イスラエルでは家庭で、子どもたちは十戒やイスラエルの歴史を両親から教えられます。たとえば、過越の祭りのたびに、子どもたちから「どうしてこのようなことをするの」という問いかけがなされ、両親がそれに答えて、神様がエジプトからイスラエルの民を導き出してくださったこと、イスラエルの民が犠牲の子羊の血を柱に塗って助けられたことを子どもたちに話し、出エジプトの、その夜に食べた、「種を入れないパン」を家中で食べて神様に感謝するのでした。
 このように育てられたイスラエルの子どもたちは、5歳になると、会堂にあった学校で神の律法、旧約聖書を学ぶことになります。律法を暗記し、その解釈を学ぶのです。イエス様も、そのような子ども時代を過ごされたことでしょう。
 そこで、能力があり恵まれた家庭であったならば、エルサレムに出て著名な律法学者のもとで、神の律法をさらに深く学ぶことになります。
 しかし、イエス様の家庭はそれほど裕福ではありませんでしたし、イエス様の下に、弟たち妹たちが生まれました。長男であったイエス様は、父ヨセフから大工の仕事を教えてもらい、家族を支えるという役割を負ったと思われます。
 それは後になって、イエス様が活動を始められてから、故郷に帰ったとき、人々がこのように言ったことからわかります。

マタイの福音書13章「54それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。55この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。56妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」」

■宮にいたイエス
 このようにして成長されたイエス様が12歳になられました。小学校の6年生ということになりますね。
 明日は、20歳を迎えた人たちの成人式ですが、イスラエルでは、13歳になると一人前の大人として認められ、そのための儀式が行われました。それは、今もユダヤ人によって守られている儀式であります。
 成人になると、毎年、過越の祭りや仮庵の祭りをエルサレムで守ることになります。ヨセフとマリヤは、毎年エルサレムに詣でており、12歳になったイエス様が、両親といっしょに過越の祭りに赴いたのも、いよいよ来年は大人の仲間入りをするという大切な準備の時でありました。
 両親は、エルサレムでの務めを果たし、親戚や知人たちと共にナザレへ帰る道をたどりました。エルサレムからナザレまでは、およそ3日ほどの旅になります。たくさんの人が行き来し、ごったがえしていました。
 両親は、当然イエス様もその中にいるものと思っていました。一日が過ぎて、ヨセフとマリヤは、息子のイエスがいないことに気づきます。あっちを捜し、こっちを捜して、エルサレムまで引き返したヨセフとマリヤは、結局、3日ののちに、イエス様が神殿の中におられるのを見つけます。

46そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

 イエス様は、宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問をしておられたのです。周りにいた人々は、イエス様の受け答えが知恵に満ちているので、驚いて聞いていました。それを見た両親はびっくりしてしましました。

48両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

 しかし、両親が心配して探し回ったということばに対し、イエス様はこのように答えました。

49するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

■自分の父は神
 この答えをどう思われるでしょうか。イエス様が神の御子であられることを思えば、このお答えはもっともなことでありますが、この時は両親にもイエス様のおっしゃったことばの意味がよくわからなかったのでした。しかし母マリヤは、これらのことをみな心にとどめておいたのでした。
 そして、イエス様が30歳になられたとき、もう一度イエス様がこの神殿に来て、神殿を「わたしの父の家」と呼ぶ時が来ます。イエス様は弟子たちと神殿に出かけた時、そこで不正な商売をしていた者たちを追い出して、このように言われました。

ヨハネの福音書2章「16また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」

 十字架にかかられたとき、マリヤはイエス様が神を自分の父と呼ぶのを聞きます。
 マリヤは、十字架のイエス様の足下にすわっていました。イエス様は、十字架の上からマリヤのこれからの生活を弟子のヨハネに託しました。

ヨハネの福音書19章「6イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われました。…27それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

 12時がすぎ、全地が暗くなり3時頃、イエス様は大声で叫ばれました。

マタイの福音書27章「46「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 それは、人々の罪を背負い、父である神に見捨てられたと感じられたイエス様の叫びでした。神から捨てられることの痛みは、本来、私たちが負わなければならないことであります。その私たちの赦されようもない罪が、このイエス様の十字架の死によって赦されたのでした。そして、

ルカの福音書23章「46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」

 マリヤは、このことばをどんな思いをもって聞いたことでしょうか。息子であったイエス様の、小さい頃から心に留めておいたいろいろなことば、行いに思いを巡らせていたことでしょう。

51それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

 マリヤが心に留めておいたエピソード、12歳のあの日あの時のイエス様のことばを、あとでルカがマリヤから聞き、聖霊の導きによってそれを書き留めたのでした。イエス様が、この12歳の時、すでに自分が神の子、自分の父は神なのだと、自覚なさっていたことを示す大事なエピソードであったのでした。

■家族に仕えて

52イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

 51節、52節のことばは、その後イエス様が成長なさり、30歳ごろになって神の国を宣べ伝え始めるまでの生涯を記していることばであります。
 「ナザレに帰って、両親に仕えられた。」「神と人とに愛された。」
 イエス様は父なる神様に従い、人との交わりの中で知恵が進み、背たけも伸び成長されていきました。イエス様には、父や母でさえ踏み込むことにできない父なる神様との深い結びつきがありました。
 しかし、それと同時に人との、とりわけ家族との深い結びつきがありました。このあと、正確な時は分かりませんが、父ヨセフが亡くなり、イエス様は長男として一家の大黒柱となって家計を担われます。家族に仕える年月を過ごされたのでした。母マリヤ、弟たち、そして妹たちはイエス様にとって大切な家族でありました。
 イエス様は、やがてご自分に定められた時が来ると、家族のもとを離れ十字架への道を歩まれます。それは、主が12歳の時、過越の祭りにエルサレムの神殿に詣で、自分の父は神であることを意識してから、長い年月がたっていました。その年月の間、イエス様はナザレで両親に仕え、ごく当たり前の人間としての務めを果たされました。そして、「神と人とに愛され」、成長なさったのです。
 イエス様がこの地上を歩まれたご生涯のほとんどを神に仕えつつ、家族に仕えて過ごされたことに今日は目を留めたいと思います。私たちは、今のこの時代、私たちの家族を愛し家族を大切にしたいと思います。
 イエス様が十字架にかかられ、復活されたあと、母マリヤも弟のヤコブたちもみなイエス・キリストを神の御子・救い主と信じる者とされました。
 イエス様が家族に仕えられた年月に思いをはせながら、今朝、もう一度このみことばを味わいと思います。

使徒の働き19章「31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。」

 文字通りには、私たちの家族もイエス様を信じる者になる、ということです。しかし、家族の中でだれかひとりが主イエスを信じるということになるなら、家族の中に大きな祝福がやってくる、ということでもあるのです。
 私たちが主イエスを信じることができますように、私たちの家族にも神様の福音が伝わりますように。そしてその信仰に支えられて、神と人とに仕えていくことができますようにと、これからも祈っていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2007年1月7日