ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年12月17日


2006年12月17日 主日礼拝説教
「仕える者の姿をとり」(ピリピ人への手紙2章6節〜8節)

■はじめに
 アドベントに入り、ルカの福音書1章から、バプテスマのヨハネ誕生のこと、そしてイエス・キリストが処女マリヤの胎に宿ったことを見てきました。
 今日は、ピリピ人への手紙のところから、イエス様がこの世に来てくださった意味をいっしょに見てみたいと思います。ピリピ人への手紙2章6節からのところは、「キリスト賛歌」と呼ばれる有名なところです。
 神の御姿であられるイエス・キリストが、へりくだって、人と同じ姿になって来てくださり、私たちを救うために十字架の死にまでも従い通してくださった、というこのみことばは有名な箇所ですので、暗唱しておられる方がおられるかもしれません。
 この箇所は、新改訳聖書第3版で少し言葉遣いが変わっています。古い聖書を持っておられる方は、いま朗読を聞きながら、その違いに気がついたと思います。

■一致を保ち、へりくだって歩むために
 ピリピ人への手紙2章で、まずパウロは「教会の交わりの一致を保ち、お互いにへりくだって歩みなさい」と勧めました。

2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

 ピリピの教会の人たちが一致を保ち、お互いにへりくだって歩むための土台は何でしょう。それが今日の6節からのところに書かれています。
 ピリピの教会の人たちが、それは私たち教会のことでもありますが、一致を保ち、お互いに「へりくだって歩む」ための土台は、イエス様ご自身がへりくだってくださったからということに、ほかならないというのです。

■神の御姿、神のあり方を捨てて

6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

 「キリストは神の御姿である方。」
 これは、キリストがこの地上に生まれて来られる以前の本来の姿を示しています。キリストは、本来は「神の御姿」であられる方というのです。「神の御姿」とは、キリストが神と一つである、すなわち、キリストは神そのものであり、永遠に神であるということです。

コロサイ人への手紙1「15御子(イエス・キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。16なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」

 この聖書のみことばは、キリストが神そのものであることを示しています。
 その神であるキリストが「神のあり方を捨てられないとは考えず、」人間となってくださったというのです。
 「神のあり方」とは、キリストが本来持っている神の御力、栄光、権威のことです。そして驚くべきことは、キリストが神の御力、神の栄光、神の権威を「捨てることができないとは考えなかった」というのです。それら神としての力、栄光、権威、捨ててもいい、と考えてくださったのでした。

■人間と同じようになられた
 キリストは、神であることを、ただ一つのあり方とは考えないで、むしろ人間への愛のゆえに、それらを捨てて、人間と同じありさまになってくださったのです。

7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 ここに、キリストが神のあり方を捨てて、人間になってくださった様子が書かれています。
 まず「ご自分を無にして」とあります。これは、キリストが神としての特権を捨てられたということです。神の地位からおりたことを言っています。
 神であるキリストが、人となるためにご自分を無にされました。神でありながら人となられました。
 神であるということは変わっていないのですが、神の地位から降りられて、「仕える者」の姿をとってくださいました。
 「仕える者」とは奴隷とか、しもべのことです。キリストは人間となられ、しもべになってくださったのです。
 神の御子キリストは、マリヤから生まれ、人間の体をご自身の体となさいました。ですから、キリストには罪がなかったという以外は、すべての点で私たちと同じようになられました。
 キリストは、私たち人間と同じように空腹になり、のどが渇き、涙を流されたり、孤独を味わったりされました。「キリストは人としての性質をもって」おられたのです。そのことを示すみことばがたくさんあります。

ヘブル人への手紙4「15私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 キリストは神であられましたが、同時に人となられました。人間の赤ん坊として生まれ、成長し、子どもから青年になり、大人になっていく。その中で、私たちと同じように試みに会われ、弱さを知ってくださいました。
 さらにキリストは、ご自分を卑しくされ、従順に仕える者となってくださいました。それは、昔から預言されていたとおりに、でした。

イザヤ書53「2彼(イエス・キリスト)は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」

■十字架にまで従われた
 その従順さ、仕える者の行き着くところが、「十字架の死」であったのです。

マルコの福音書10「45人の子(イエス・キリスト)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」

 十字架への道は「自分を卑しくし」死にまで従う歩みでした。「卑しくする」というのは、へりくだる、低くなるということです。
 「自分を卑しくする」最初の姿が、クリスマスの日、ベツレヘムでお生まれになったとき、飼葉おけに寝かされたことでした。私たちのイエス様は、33年の人としての生涯を全うし、そして、最後には十字架につけられて死んでいったのでした。
 飼葉おけから始まり、「十字架の死」に至るまで、キリストは従順に仕える者としての生涯を送られたのです。
 十字架刑は、最も苛酷な死刑の方法と言われています。自分がかけられる十字架を背負わされて、刑場まで歩かされ、刑場に着くと、その十字架に釘付けにされ、死ぬまで放っておかれました。
 十字架刑には、肉体的、精神的な激しい苦しみが伴いました。しかしキリストは、この苦しみに耐え、死に至るまで従い通してくださいました。
 また十字架は辱めを与える刑でした。大勢の見物人の中で、その死に行く姿をさらしものにされたのです。しかしキリストは、辱めにも耐え、従い通してくださいました。
 また十字架の死は、神から呪われた者に与えられる刑罰でした。キリストは、私たちの代わりに、「神に呪われた者」となって十字架にかかってくださいました。
 キリストがここまで、ご自分を捨てて、神と人間に仕えてくださったのは、何のためだったのでしょうか。今日の招きのことばで読みました。

コリント人への手紙第2,8「9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 キリストが神のあり方を捨てて、仕える者の姿になって来られたのは私たちを救ってくださるためでした。私たちの貧しさを引き受けて、私たちを富む者にしてくださり、私たちの罪を引き受けて私たちを罪から解放してくださり、神の子どもとされる特権を与えてくださるためでした。

ヨハネの福音書1「12しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

■クリスマスにキリストを迎える
 パウロは、ピリピ教会に「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」と勧めました。
 そのように勧められても、すでに、私たちのだれもが経験していることですが、私たちは生まれつき、このような良きことを、自分の意志や自分の力で行うことはとうていできません。
 ただ一つ可能性が開かれるとしたら、それは、ご自分を捨てて私たちの所に来てくださったキリストを迎え入れる時にのみ、その道が開かれてくるのです。

エペソ人への手紙3「17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」

 私たちの内に住んでいてくださるイエス・キリストが、私たちに愛の心を持たせてくださるのです。
 アドベント第3週を迎え、今日はロウソクが3段目まで立てられました。きょう、イエス・キリストが生まれてきたことは、仕える者の生涯の最初の姿であったことを覚えたいと思うのです。私たちの罪のただ中に、イエス・キリストが来てくださったこと、私たちの罪を引き受けて、十字架に至るまで、仕える者であり続けてくださったことを見つめる1週間としたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年12月17日