ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年8月27日


2006年8月27日 主日礼拝説教
「おことばをいただかせてください」(ルカによる福音書7章1節〜10節)

■はじめに
 前回のルカの福音書では、6:12-16から「12使徒の選び」という箇所をお読みしました。
 さて、12使徒を選ばれてから、一同は山を下り、イエス様は平らな所に立っていくつかの奇蹟と説教を始めらました。その説教は平地の説教として言われている箇所ですが、マタイの福音書5章からの山上の説教と同じ内容がたくさん含まれております。
 イエス様は、これらの説教を話し終えられると、カペナウムに入られました。

■百人隊長のしもべ

1イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。

 カペナウムは、今までもたびたび出てきましたガリラヤ湖のほとりにあった町で、イエス様のガリラヤ地方における宣教活動の中心となった町でありました。

2ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。3百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。

 そこに、ある「百人隊長」からの使いがやってきたのでした。「百人隊長」とはローマの軍隊の組織で、100人の兵隊を率いている指揮官のことです。
 この「百人隊長」は、ユダヤ人ではなく異邦人でした。その「百人隊長」の「ひとりのしもべが、病気で死にかけていた」のでした。
 このしもべは、「百人隊長」にとって大切な存在でした。「重んじられていたひとりのしもべ」とあります。「重んじられていた」というのは、「尊い」とか、「大事な」ということばです。彼はしもべではありましたが、「百人隊長」にとって大切な、それこそ自分の子供のような存在だったのでした。
 この2、3節で使われている「しもべ」ということばは、文字どおり奴隷を意味することばでありますが、7節で使われている「私のしもべ」は、欄外の注にもありますように、「私の青年、私の少年」とも訳されることばであります。

■百人隊長
 「百人隊長」は、ちょうどカペナウムにやって来られたイエス様のことを聞きました。聞くところによると、イエス様は病人をいやしておられる。イエス様にお願いすれば、しもべもきっと直ると考えたのでした。
 しかし、しもべは病気で死にかけており、動かすことができなかったのでした。
 もう一つ問題がありました。「百人隊長」は異邦人であったので、表立ってユダヤ人と交際できないということでした。イエス様の周りにはいつも大勢の人たちがいましたので、その群衆の中に出て行くことはむずかしいことでした。
 さらに、ユダヤの救い主としてこられたお方に、異邦人である自分がそんなことを直接お願いする資格がないと、考えたのでした。
 それで、「ユダヤ人の長老たち」に頼んで、イエス様のもとに使いを送ったのでした。

4イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。5この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

 百人隊長は、イエス様に来ていただこうとまでは考えていなかったのでした。それは、このあとの6、7節にもあるように、イエス様にわざわざ家までおいでいただかなくても、イエス様が直そうと思ってくださるなら、おことばだけで直していただけると信じていたからでした。
 しかし「百人隊長」から遣わされて来た「長老たち」は、イエス様に出向いていただこうと願い、この人がいかにユダヤの社会で信頼され、尊敬されているかを話しました。「百人隊長」はユダヤの国民を愛し、ユダヤ人の会堂を建ててくれたというのでした。

 先ほども言いましたが、本来、ユダヤ人が異邦人の家に入ることはなかったのであります。が、「長老たち」は、この人は特別ですから、この人のしもべをいやすために彼の家に行ってあげてください、と「熱心にお願い」したのでした。

■イエス様が百人隊長のところに行く
 イエス様は、それを聞いて、「百人隊長の家」に向かいました。

6イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

 イエス様が「百人隊長の家」に来てくださることになった。それを聞いて「百人隊長」は慌てたと思われます。そこで急いで、「友人たちを使いに出した」のでした。百人隊長はイエス様に伝えました。6節です。
 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」
 自分は異邦人で、ユダヤ教徒ではないから、イエス様に来ていただく資格がない。だから、わざわざおいでいただくことはなさいませんように、ということなのです。
 「長老たち」が「百人隊長」のことを、彼は尊敬すべき人物であり、神様の恵みを受ける資格が十分あると言ったにもかかわらず、「百人隊長」自身は、自分は神の民に属していない異邦人である。また自分にはイエス様の恵みをいただく価値がない。罪ある汚れた者であることを自覚していたのでした。
 しかし「百人隊長」は、イエス様があわれみ深いお方であり、神様の権威をもって、すべての人をいやしてくださるお方であることを 聞いていました。
 「百人隊長」から送られた使いは、続けてイエス様にこう伝えます。

7ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

 イエス様のところへ行くことさえ失礼と存じますので、おことばをください。イエス様がいやしてくださると言ってくだされば、私のしもべは必ずいやされるのです。

■百人隊長の信仰
 「百人隊長」は、イエス様から「おことばをいただく」だけでもう十分だと信じていたのでした。イエス様のみことばに対する信仰を与えられていたのでした。たとえイエス様が遠くにいらっしゃっても、病気に直れ、と命じれば、そのことばのとおりに直る、と彼は信じたのでした。
 百人隊長は軍人でした。彼は軍人として、上官の命令のとおりに行動し、彼の部下も彼の命令に従い、そのとおりにすることを知っていました。

8と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」

 まして神様のお子でいらっしゃるイエス様なら、み思いのまま直れと言えば直り、生きよと言えば生きるようにしてくださる。「百人隊長」は、権威ある者のことばというものがどういうものか、身をもって知っていたのでした。
 「イエス様、私はそう信じております」と彼は告白をしたのです。

9これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」10使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

 イエス様は「百人隊長」の信仰告白を聞いて驚かれ、このように言われました。9節です。「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」とおっしゃいました。ユダヤ人にも見られないほどの立派な信仰だと、ほめてくださったのです。
 果たして、使いが家に帰ってみると、イエス様のおことばどおり、百人隊長のしもべの病はいやされたのでした。

■まとめ
 きょうのところから教えられることを2つ、考えたいと思います。まず1つは、神のみことばの権威ということです。
 神様は、みことばによってこの世界を造られました。神様はみことばによってアブラハムを召し出し、アブラハムはそのみことばに従い、行く先も知らないで出てゆきました。
 神様はみことばをもって、モーセたちイスラエルの民たちをエジプトから召し出し、カナンの地へと導いたのであります。
 聖書は、神のみことばには力があり、その神様のみことばどおりにすべてがなされ、すべてがそのように実現してきたことの歴史であります。
 百人隊長は、自分の経験から上からのことばには権威があり、力があることを知っていました。イエス様のことばには、天と地をもことばによって創造された神様の権威があることを信じたのでした。
 もう一つは、百人隊長「ただ、おことばをいただかせてください」と言ったことです。
 彼は、主のみことばの権威を無条件に認め、その前にひれ伏して信頼します。イエス様のおことばがあれば、それでもうしもべはいやされます、という信仰です。この信仰をイエス様は「りっぱな信仰だ」とほめてくださいました。
 百人隊長の信仰とは、どんな信仰だったのでしょうか。彼はローマの軍人で、ユダヤでは相当の地位と力がありました。しかも彼は、ユダヤの長老たちがほめたように、ユダヤの国民を愛し、ユダヤ人のために会堂を建てたのです。その良い行いによって、イエス様の来ていただく資格もあったはずです。
 しかし、彼は行いに頼ることをせず、むしろ自分は選びの外にある異邦人であること、救いを受けるに値しない者であることを告白したのです。
 この謙遜な姿勢に加えて、イエス様が認めてくださったことは、百人隊長が見ないで信じる信仰を持っていたことでした。それが「ただ、おことばをいただかせてください」ということばになったのでした。
 私たちは、この目で見ないうちはなかなか信じようとしない不信仰な時代に生きています。しかし信仰は、見ないで信じるからこそ信仰なのです。
 見ないで信じる。そして信じたとおりになっていく。それがイエス様の与えてくださる信仰なのです。
 この、百人隊長のしもべがいやされた奇蹟は、イエス様の救いが異邦人にまで及ぶこと、そして、救いは信仰によって与えられることを告げています。私たちは、イエス様の時代から2000年もたち、イスラエルから遠くはなれた異邦人であります。しかし、私たちも同じ神様のみことばの権威によって、百人隊長が与えられたのと同じように、見ないで信じる信仰を与えられているのです。
 招きのことばで読みました。ペテロの手紙第一、1:8-9です。

8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

 おことばには力があり、そのおことばによって私たちは救われる。それは、わたしたちにとって、この上ない大きな喜びです。何物にも代えがたい宝です。
 神様がくださった信仰を喜び、神様のおことばの力を信じて、今週も一歩一歩歩んでまいりましょう。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年8月27日