ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年7月2日


2006年7月2日 主日礼拝説教
「あなたの罪は赦されました」(ルカによる福音書5章17節〜26節)

■はじめに
 先週は、ルカの福音書5:12-16節を読みました。ツァラアトに冒された人が、イエス様の前に出て、「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」と願ったときに、イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃってくださり、そのツァラアトに触ってくださって、癒してくださったお話をいたしました。
 今日はその続きのところになります。

■中風の人を連れてきた男たち

17ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

 イエス様の教えと、イエス様が御力をもって病気を治しておられるという評判が「ガリラヤとユダヤ」一帯に広まっていきました。その評判を聞きつけ、「パリサイ人と律法の教師たち」が「エルサレム」からも、やって来るようになりました。このことが、あとでイエス様との「神について」の論争に発展するのです。
 このとき、イエスさまが教えていらっしゃった場所は、マルコの福音書によれば、カペナウムという所にあった、ある家の中でした。そこでイエスさまは、みことばを教えておられました。
 カペナウムやその周辺の人々が、イエス様の話を聞きに集まってきました。これも、マルコの福音書の表現によれば、その家の「戸口のところまですきまもないほど」だったとあります。中に入りきれなかった人も、たくさんいたようです。

18するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

 そこに中風の人が運ばれてきたのです。彼は、体を自由に動かすことができないのです。そのような不自由な体になり、外出も思うようにはなりません。
 それで男たち、……この男たちというのは、4人であったとマルコの福音書には出ています。この4人の男が、中風の人を「イエス様のところに連れていってあげよう」ということになりました。それで、中風の人を寝床に寝かせたまま、かついで連れて来たのです。

■屋根に上がる男たち
 ところが、連れて来たものの、戸口のところまで人があふれていました。イエス様に近づくことができません。そこで、どうしたかというと……

19しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。

 彼らはすごいことを思いつきました。彼らは屋根にあがってしまいました。屋根に上がって、イエス様のおられるあたりの「屋根の瓦をはがし」、屋根に穴をあけようとしました。
 イスラエルの家は、屋根が平らになっていて、木材の上に葦やしゅろを並べ、土を乗せていたそうです。それにしても、屋根に穴をあけて、人間を寝たままつりおろすのですから、大変なことだったでしょう。
 大勢の人がイエスさまのお話を聞いている。そこに突然、物音が起きる。上を見上げる人々。しだいに音は大きくなる。「バリッ、バリッ!」
 音だけではありません。当然、天井の壁土がボロボロと落ちてくる。いっしょにホコリが舞います。ハンカチを口に押さえたくなるような、逃げ出したくなるような大変な状況だったのです。でも、ぎゅうぎゅうづめの中、イエス様をはじめ、よけることはできなかったでしょう。イエス様も、ほこりまみれになったかもしれませんね。
 突然、ぽっかりと大きな穴があき、太陽の光が差し込み、人が寝たままおりてくる。「なんだ、なんだ!」
 ゴミやホコリの中で、屋上から「イエスさま、その人を助けてやってください。治してやってください。お願いします」と大声で叫んでいる人たち。そのような騒然とした中です。イエス様は、この中風の人に言われました。

20彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

■彼らの信仰を見られたイエス様
 イエス様は「彼らの信仰を見」ました。彼らの信仰とは、ずいぶん乱暴なやり方でしたが、治りたいと願っている中風の人と、無中になってその人をイエス様の前につりおろした人々。その「彼ら」ひとりひとりの信仰を見られたのです。
 4人の男の人たちは、人にどう思われるかなどということは、考えていなかったでしょう。なんとかして、この中風の人を助けてあげたい。イエスさまのもとに連れていけば、なんとかなる。どうぞイエスさまお願いします、と。ただそれだけを、思っていたでしょう。
 この彼らの信仰をイエス様が見られたのです。
 彼らの信仰とは何でしょうか。それは、何としてもイエス様に近づこうとする、その信仰です。
 信仰とは、格好ではありません。人の目を気にする、世間体でもありません。とにかくもう、なりふりかまわずというか、やぶれかぶれというか、がむしゃらにイエス様の「ふところ」に飛び込んで行く、その信仰であります。

■あなたの罪は赦されました
 そういう彼らの信仰を見て、イエスさまは、みながびっくりするようなことを言いました。「友よ。あなたの罪は赦されました。」イエスさまは、中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われたのです。
 イエス様は、中風の人を慈愛のこもったまなざしで見つめ、力強く、罪の赦しを宣言されたのです。「あなたの罪は赦されました。」
 罪の赦しは、中風がいやされるより、はるかに大きな恵みです。それは永遠のいのちにかかわる救いだからです。
 先週、お話ししたツァラアトの人のいやしを思い出してください。罪に汚れており、神の前に出ることさえも禁止されていた者がきよめられて、神様の前に出ることができるようになる。これがイエス様のお心でした。
 そのイエス様のお心が、この中風の人にも向けられたのです。「あなたの罪は赦されました」と。

■罪を赦すことができる神であることを示す
 しかし、この喜ばしいことばに対して、内心、不愉快に思った人たちがいました。そこに座っていた「律法学者、パリサイ人たち」でした。彼らは、「あなたの罪は赦されました」という、イエス様のことばが気に入りませんでした。服のほこりを払いながら、かもしれません。心の中で「理屈を言い始めた」のです。
 神の国について話すことは、だれにでも許される。しかし「あなたの罪は赦されました」と言う権威は、人間には与えられていないのです。罪が赦されるかどうかは、天において定められるものと考えられていたからでした。「罪が赦された」と言うことができる。しかも、この地上で罪の赦しを実現させてしまう。そう言うあなたは神なのか、そんなことはない。
 そのように「律法学者、パリサイ人たち」は考えたのです。

22その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

 中風の人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいでしょうか。
 「罪が赦された」と言っても、外見からはその証拠を見ることができません。しかし、皆が見ている前で、中風の人が治り歩いて帰ることになったら、治した人の力をだれも疑うことはできません。病気をいやすことのできる、神の力があることを、そして、イエス様がこの地上で罪を赦す権威を持っている神の御子であることを、示すことになるのです。
 イエス様は言われました。

24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

 「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」。男の病気はたちどころにいやされ、イエス様が神の力を持っておられることが、目に見える形で明らかになりました。地上で、罪の赦しが目に見える形で実現したことが、皆の見ている前で明らかになったのでした。
 「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで」みなの見ている前を出て行ったのです。この男が歩くたびに人々は、恐れて、しりぞき、道をあけたことでしょう。
 「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされた」のです。そして「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言って神様をあがめました。

■まとめ
 「あなたの罪は赦されました。」このイエスさまのおことばは、中風の人だけにかけられたことばではありません。ほかの、どんな病気をしている人であっても、どんなつらい目にあっている人であっても、いや、たといどんなに健康であっても、どんなに幸せに暮らしている人であっても、イエスさまから恵みをいただくときに、だれもがイエスさまからかけていただくおことばです。「あなたの罪は赦されました」と。
 この4人の男たちは、中風の人をかついで屋根にのぼり、穴をあけ、イエスさまの前につり降ろしました。なんと激しい乱暴な信仰表現でしょう。
 しかしイエスさまの愛は、もっと激しかったのです。私たちの救いのために、ご自分の命をかけて進まれたからです。
 イエス様は、十字架にかけられ、ご自分の肉を裂かれ、血を流されて、私たちを罪から救ってくださいました。こんな激しい行動、こんな激しい愛の表現があるでしょうか。
 「あなたの罪は赦されました」ということばには、それほどの犠牲が払われたのであります。イエス様の十字架だけが、私たちを罪から救ってくださるのです。ほかには救いはありません。
 あるとき、罪を犯した女の人がイエス様のもとに連れて来られました。人々は言いました。「このような罪を犯した女は、石打ちにすべきです。」
 そのとき、イエス様は言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」それを聞いた人々は、ひとり去り、ふたり去り、だれもその女の人に石を投げることはできませんでした。
 そして、イエス様と、その女の人だけが残りました。 イエス様は、その女の人に言いました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 イエス様だけが人の罪を赦すことができるのです。天の神様は、私たち人間の罪を赦すために、イエス様を救い主としてこの世に遣わしてくださいました。
 今日の招きのことばで読みました。マルコの福音書10:45です。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 私は、高校生の時に、軽井沢で行われた夏の修養会で、イエス様を信じる決心に導かれました。あの時のみことばが、今も鮮明に思い出されます。詩篇51:7です。

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」

 その時、イエス様が私に「あなたの罪は赦されました」と声をかけてくださったからです。
 今日は、このあと聖餐式を行います。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様。そのイエス様の裂かれた肉と流された血を覚えて、パンとぶどうジュースをいただきたいと思います。
 私たちを愛してくださる主に、私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださったイエス様に、心いっぱいの感謝をささげましょう。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2006年7月2日