第9日  主を待ち望む者は新しく力を得る
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:30−31)


1 信仰への招き

今日の聖書の箇所は、予言者イザヤが、バビロンに捕らわれ奴隷生活の苦難の中にあるイスラエル民族にたいして語った励ましに満ちた神のことばです。もし私たちが大きな試練や問題に直面しているならばイザヤの教えと励ましはそのまま私たちへの神様からの語りかけとなることでしょう。

イスラエルの民は、困難の中で、「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」(27)とつぶやきました。私たちもまた日々の生活の中で、「私の神様は一体どこへ行ってしまったの? 私の祈りを神様はどうして聴いてくださらないの? なぜ神様は私の進むべき道を隠しておられるの?」(27)とつぶやき、元気を失い、無気力やあきらめモ−ドに生活が支配されてしまうことがあるのではないでしょうか。そのように心が弱っている時には、ちょっとしたことや何気ない他人のひとことに大きくつまずいてしまうという悪循環に陥りやすいものです。

そこでまず、イザヤはうなだれている民に向って、私たちの神は「永遠の神、地の果てまでを創造された全能の神」(28)であることをしっかり思い起こしなさい呼びかけました。全能の神が疲れてしまい、めぐみの御手を愛する者に差し伸ばすことができなくなるようなことは決してありえません。神が道を隠しておられるのではなく、彼らが不信仰と傲慢さの故に、神が用意しておられる道を見ることができないのです。私たちが信じる聖書の神は、「永遠の神、全能の神」であることを忘れてはなりません。神が私たちの人生から消え去り、立ち去ることはないのですから、厳しくつらい状況の中にあってもこのお方の存在をわすれてはなりません。神がおられないと嘆くのは、夜にもかかわらず、「ああ、全世界から、全宇宙から太陽が消滅してしまった」と嘆いているようなもので、事実とはかけ離れています。試練のときこそ、永遠の神、全能の神に信仰の焦点をあわせて、神を見上げさせていただきましょう。

私たちクリスチャンにとっての真の励ましとは、「目が開かれて永遠なる神、全能なる神への信仰が回復する」ことと言えます。

「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない」(イザヤ469

2 主を待ち望む信仰

苦難の中にあるイスラエルの民に対して、イザヤは「主を待ち望め」と教えています。主を待ち望む者は「新しい力」を得るからです。しかも「わしのように高く舞い上がることができる」からです。

待ち望むとはどのような態度を指すのでしょうか。待ち望むというヘブル語には「耐える」という意味と「伸ばす」という意味があるそうです。忍耐や我慢という受身的な意味ばかりでなく「縮こもらないで伸ばす」という積極的な意味もあります。さらに、力を受けた者のすがたが「鷲」にたとえられていることもたいへん興味深いことです。

鷲はその風格、大きさ、強さ、速さから鳥の中の王者と呼ばれています。鷲の最大の特徴は、高い切り立った崖っぷちの小さな岩の上を住まいとし、そこに巣を作る点です。もちろん外敵から卵や雛を守るという意味もありますが、それよりも吹き上げて来る「風」の音をよく聞き分けるためです。

鷲は、からだが大きく重いですから雀のように羽ばたいて飛び上がることができません。ですから鷲は風の音を聞き分け、高い崖からジャンプして谷底へ飛び降り、翼を大きく広げることによって、風、つまり上昇気流をつかんで空高く舞い上がるのです。他の場所へ行きたいときにも、新しい上昇気流を見つけてそこへ移動して、風の力を受けて高く舞うのです。鷲は目に見えませんが、風の道を知っているのです。風の力を最大限、味方にして大空高く舞い上がるのです。

上昇気流の力は驚くばかりです。以前、インドの鶴が上昇気流に乗って4千メ−トル級のヒマラヤ山脈を越えて中国へと渡ってゆく映像を見て感動した覚えがあります。鶴自身の飛行能力と体力ではとうていヒマラヤ越えなどは不可能であるにもかかわらず、それが可能となるのは、鶴が風の道を知っており、風の力を翼に受けることを学んでいるからです。

このことは、私たちに「自力によるがんばり努力の信仰」ではなく、「神を待ち望む信仰」のあり方を教えていると思います。自分の力でがんばろう、解決しよう、克服しよう、飛びあがろう、走りだそうといった「がんばり努力型の信仰」は遅かれ早かれやがて疲れ果て倒れてしまうときがきます。元気いっぱい振る舞おうと気持ちを奮い立たせれば立たせるほど、外面とは別に一人になったときに、どっと疲労感が押し寄せ、心のギャップにもがき苦しむことにもなりかねません。ところが、神の力を待ち望み、神の力を受けることで新しく生きることが可能となるのです。

1に、神を待ち望みましょう。鷲が風が吹き上がるのを待つように、信仰者も神の御心、神のことば、神の導き、聖霊の満たしと御力を待ち望むことが必要です。祈り待ち望むこと自体が私たちの信仰を深め成熟させます。大きな祝福が実現するには、大きな祈りの期間が必要とされます。「求めなさい、そうすれば与えられます」とイエス様は約束してくださっていますから、求めること・祈ることをやめてはなりません。祈りの中で信じて待ち望みましょう。

第2に、風が吹いたら風の中に鷲が身をゆだねて飛び出すように、神の御手に身をまかせて飛び込むことが求められます。これを「信仰の決断」といいます。京都では、大一番の勝負をする時、「清水の舞台から飛び降りる」と言います。高さ十三メートルの舞台から飛ぶのはけっこう勇気がいることです(もっとも明治5年に飛び降り禁止令がだされ、今はだれも飛び降りませんが・・)。私たちが決断し神に身を任せるという行動は、視点をかえれば「神が全面的に引き取ってくださること」に他なりません。頼りない自分の力でやっかいな自分の面倒を最後まで見るか、全能の神に万事引き取っていただくことを願い出るか、どちらがより安全で賢明な選択といえるでしょうか。委ねる相手は、永遠の神、全能の神なのですから、恐れることはないのです。

信仰によって新しい事柄に踏み出そうとする時、本当に大丈夫だろうかと不安になったり臆病になったりしやすいものです。何事であれリスクを慎重に検討することは大切なことです。時には石橋をたたいででも渡らないと言う慎重さが必要なときもあります。勇気があるとこととリスクや危機管理に無頓着であることとは異なります。確かに、慎重であることは良いことですが、慎重であることと臆病であることとは異なります。慎重であっても私たちは臆病であってはなりません。
「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊
なのである」(2テモテ
17

親鷲は雛が成長し巣立ちの時期が来た時、鋭いくちばしで雛を巣の外へ追いやります。とうとう巣から飛び出した雛はまだ十分に翼の広げ方や使い方を身につけていませんから、ばたばたと羽ばたきながら落下していきます。その時、親鳥が下にもぐりこんで、雛を大きな翼の上に乗せて、気流にのって舞いあがり、風の音の聞き分け方、風の乗り方移り方、翼の使い方を教え、再び巣に戻ってくるそうです。雛は失敗を何度も繰り返しながら、飛行技術を学んでゆくのだそうです。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」(申命3327)と聖書に記されています。私たちが神に思い切って身を任せて行くならば、親鷲が雛を翼をもって下から支えるように、全能なる神は、恵みの御手を力強く差し伸べ、下から私たちを抱え上げて支えてくださることでしょう。

3に、鷲が気流を受けるために大きく翼を広げ、高く自由に舞い上がるように、私たちも、信仰の翼を大きく広げれば広げるほど自由な開放感を得ることができます。待ち望むということばには「伸ばす」という意味がありますから、小さく畳み込んでいてはなりません。広げれば広げるほど、より多くの風を受け、高く上がることができ、高く上がることによってより広い視野を獲得することができます。

クリスチャンはこの世の人よりも広い視野に立つことができるように聖書によって導かれています。天地の創造から終末の新しい御国の完成まで、地上の生活から永遠の生活まで、そして人間の思いばかりでなく神の永遠の御心、愛に満ちたご計画まで、聖書は真理を教え、私たちが広い視野と視点から人生を見ることができるように導いてくれています。永遠の神、全能の神のみこころを知らされることは何と幸いなことでしょうか。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ559

神のみこころにさらに近づき、神のみこころの中を歩む時に、私たちは真の力をうけることができます。鷲にとって目に見えませんが上昇気流という風の道の上を飛ぶ時、力を受け決して疲れないように、私たち信仰者も、目に見えませんが、神の御心という道の只中を歩む時に、決して疲れることのない真の力、活力、エネルギ-を得ることができるのです。鶴がアルプス越えを達成するように、私たちも真の力を受ける時、その霊的な力によって、一つ一つの課題を達成することができ、喜びと自信へと導かれることでしょう。

「主を待ち望む者は力を受け、鷲のように高く舞うことができる」

つばさを広げるところから、力は与えられます。あなたは高く舞うために与えられた翼をおりたたんでしまっていないでしょうか。永遠の神、全知全能の神を信じる信仰の翼を広げるならば、だれでも、神の力、聖霊の力を豊かに受けることができるのです。

神への信仰、これこそが人生の最も偉大な力であることを貴方にもぜひ、知っていただきたいと心から願っています。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように新しくなる。」 (詩篇103:1−5)

2007年8月12日 主日礼拝




  

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