第10日   あなたのなかにおられるキリスト
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)


先週、宇治川にて2名のバプテスマ式が喜びのうちに執り行われました。バプテスマ式は、キリスト教会の単なる入会儀式ではなく、「キリストとともに生まれながらの古い私が死んで葬られ、キリストがよみがえられたように、キリストに結び合わされて新しいいのちに生きる」というクリスチャン生活をいきいきと象徴する神の豊かな恵みを表しています。

パウロはロ−マ人の手紙において、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ロ−マ64)と、バプテスマの意義を説き明かしています。ポイントはキリストにある新しいいのちに満たされて新しい生活を歩むことにあります。

このキリストにある霊的な体験を、ガラテヤ人の手紙において、「私はキリストと共に十字架のつけられました」さらに「キリストが今、私のうちに生きておられる」とパウロは生き生きと表現しています。

1 キリストと共に十字架につけられました

私たちはキリストへの信仰を告白し、キリストの名によってバプテスマを受けた時、キリストの十字架の死に結びつけられ、私たちのアダム以来の古い人はキリストと共に葬られ、古い生活は終了してしまいました。 古い生活はすでに終わってしまっていますから古い生活へまい戻ることはできません。基本的にもはやそこには所属する場所がないのです。もちろん古い人が葬られたということは、罪を犯さない完全な人間になったということを意味しているわけではありません。罪を犯さなかった完全な人間はイエス様ただお一人であり、私たちは人間であるかぎり、たとえクリスチャンであっても「完全」ではありえません。なすべきことをしない怠惰が罪であるようにすべてが完全であることを要求する完全主義もまた罪といっても過言ではないと思います。古い人が葬られたとは、生活の基本的方針、基本的方向性が決定的に変わっってしまったことを指しています。従来の基本的な人生計画が破棄され、新しい人生計画が立案され、新しい人生計画に従ってプログラムが動きだしたとたとえることができます。

それはちょうど、敗戦を告げる天皇の玉音が放送された日をもって太平洋戦争が終結し、日本の天皇制軍国主義に実質的に終止符が打たれたことにたとえることができます。敗戦が決定的となっても、まだその知らせが届いていない地域では日米間で局地的な戦闘が続き、兵士の間では死傷者がでました。しかし、戦闘は確実に集結を迎えます。なぜなら玉音放送が流れた日をもって実質的に戦争がすでに終わったからです。同様に、キリストを信じた時にアダムに属する古い人は、キリストとともに十字架につけられ、死んで葬られてしまい、実質的に古いいのちに終止符がうたれてしまったのです。

「みよ、古いものは過ぎ去った。すべてが新しくなった」(2コリント5:17)

生まれながらの人間を聖書は「古い人」、キリストにあって新しく生まれた人を「新しい人」と表現しています。新しい人の特徴は、イエス様が「まず神の国とその義とを求めなさい。そうすればそれに添えて全てのものが与えられます」と呼びかけたように、神の国と神の義を追い求めることに人生の価値を置く人々です。そして全てのものは神様から恵みの贈り物として与えられたと信じていますから、神様への感謝の心を忘れることがありません。一方、古い人の特徴は正反対です。神の国よりは「この世」を追い求めます。神様との正しい関係(神の義)よりは自分がいつも中心であり、自分の欲に従い、「神様など不必要」「いてもいなくても私には関係がない」と考えます。このような「ゆがんだ関係」の中で生活し、欲しいものを手に入れるためなら、手段さえも厭わないという「罪の生活」を愛します。そこには感謝はなくあるのは不満足と欲望ばかりです。聖書はこのような生き方の終着駅は「死と滅び」であると教えています。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロ−マ6:23)

古き人が十字架につけられたとは、この世中心の価値観に基づいた生活スタイルから解き放たれることを指しています。神の国と神の義を根底においた新しい価値観とライフスタイルに生きることを意味しているのです。

2 キリストが今、私のうちに生きておられます

キリストの死に預かったものは、キリストの復活にあずかり、新しいいのちによみがえらされて、新しい生活を始めることができます。霊的な誕生を迎えることができるのです。キリストのいのちに根ざした新しい生活をパウロは「私のうちにキリストが生きておられる」と、人格的に表現しました。キリストが私の心のうちに住んでくださっているので、

第1に、イエス様との強い一体感をいつも経験しています

 イエス様はどこにおられますかと聞かれて、天におられますと答えるクリスチャンと私の心の中におられますと答えるクリスチャンがいます。どちらがより強く深くイエス様との一体感を経験しているといえるでしょうか。それはイエス様が私の心の中で私とともに生きていますといえる人であると思います。病気や事故で愛する人を失ってしまったご遺族が、「彼(彼女)は、わたしの心の中でずっと生きています」とインタビュ−に答えている姿を見ることがありますが、その人にとってはそれはまさに生きた現実なのだと思います。

「キリストが心の中におられる」、だから決して孤独ではないのです。心が空っぽではありません。もっとも良きお方によって心が一杯満たされているのですから喜びが満ちています。イエス様の麗しい名の一つは「インマヌエル」(神、われらとともにいます)であり、よみがえられたイエス様は信じる者とともに人生を歩み、信じる者の心の中にいつまでも共に住んでくださるお方なのです。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:17)

第2に、イエス様のみこころを行うことが喜びとなります

イエス様はいつも父のみこころを行うことを愛し、喜びとされました。父なる神様のみこころを喜ばせることがイエス様の人生の最大の目的でした。イエス様の心の糧であり、原動力でした。

「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)

父のみこころとは、一人の人さえ滅びることなく、キリストを信じ救いを受け、天の御国の民となることです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)

イエス様はお弟子たちに、「さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(ヨハネ4:35−36)と、宣教への情熱を語りました。宣教は父なる神様のみこころの実践であり、イエス様がお弟子たちに命じられた命令でもあります。宣教を「私の食物」とさえ呼ばれたイエス様が内住されておられるのですから、私たちクリスチャンもまた同様に、宣教に遣わされ、宣教の喜びを分かち合うことが、心の糧であり食物となっているはずではないでしょうか。俗な言い方をすれば、イエス様と同じ釜の飯を食ってこそ、イエス様の弟子なのです。

3 キリストを信じる信仰によって生きています

 パウロは「私はキリストを信じる信仰によって生きている」といいました。十字架のキリスト以外に救いとするもの、誇りとするものはないといいました。もし救いが行いや努力によって得られると考えるならば、それは神の恵みを破壊することになり、キリストの十字架の尊い贖いを無意味にしてしまうことになります。だからパウロは、私は「神の恵みを無にしない」と強い意志を表明したのです。信仰によって生きるとは、キリストを信じる信仰によって神の前に義とされているという救いの本質を指しています。キリストの十字架の救いを無にしてしまうようないかなる思想に対してもパウロは断固として闘う姿勢を示しているといえます。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)

ルタ−は「私が何をすべきかでなく、神の子であるキリストが私のために何をしてくださったか。すなわち彼が私を罪と死から救い出すために苦しみを受けて死んでくださったことを教える福音に耳を傾けなければならない。」とルタ−は言いました。福音に耳を傾けること、これこそが信仰に生きる姿と言えるのではないでしょうか。福音がただしく説かれ、福音がただしく聞かれるなかで、信仰に生きる人々は生きることができるのです。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」(ロ−マ1:17)

神の御子イエスキリストを信じる信仰、この信仰によって私たちは尊い救いを受け、この信仰によって「内住されておられる」キリストに支えられ、励まされ、強められて人生を歩ませていただいています。ハレルヤ。

2007年9月9日 主日礼拝




  

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