第8日  収穫のための働き人を起こしてください 
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタイ9:36−38)


今日の礼拝には国際シャローム教会の林先生が代表をされている「アジア福音宣教会」が主催した3週間の日本宣教の研修セミナーに台湾長老教会から参加された4名の若者が出席しています。国際的な経済力と繁栄・世界トップの科学技術力を誇る日本ですが、クリスチャンの数が100万人弱とアジアのなかでも特別にクリスチャン人口比が少ない、宣教が難しい国と呼ばれています。彼らは、日本を理解し、日本を愛し、日本の人々が一人でも多くイエス様を信じて永遠のいのちに至る救いをいただくことができるようにと重荷をもっています。また彼らを学びに送り出してくださった彼らの両親や台湾長老教会の信徒さんたちも日本のために祈ってくださっています。今日は一緒に「宣教」についてみことばを学び、分かち合いましょう。


1 召しと賜物

イエス様は弟子たちに向かって「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(38)語りました。

「収穫が多い」とは永遠のいのちの救いに導かれる魂が多くいることを指しています。「イエス様を信じる人々が本当に少ない、伝道してもなかなか救われない」と私たちは落胆しがちですが、イエス様の目にはいつも多くの「失われゆく人々」の姿が映っています。イエス様の目にうつる日本は決して霊的な不毛の地ではないと思います。

経済的な繁栄の中にありながら格差が拡大し、9年連続で年間3万人以上の人々、1日90人以上の人たちが自殺をしています。これは世界的に見ても異常事態です。そしてその背後には統計に現れてこない10倍以上の自殺未遂者の存在が予測されています。ストレスや苦悩から精神的な障害に陥り、1ヶ月以上会社を休んだ労働者の数は昨年1年だけで40万人を越えたそうです。神様のことばも、キリストの愛も平安も知らないまま、苦しんでいる人々が多くいます。私たちの周囲にも神様の助けを必要としている人々がいます。弱り果て投げ捨てられた人々の声なき声、心の叫びを聞くことが私たちにできているでしょうか。日本は不毛の地ではなく、収獲が大いに望まれている宣教地なのです。

「収穫のための働き人」とは、魂の救いのために惜しまずに労苦する献身的な人々を指します。神学校で必要な学びや訓練を受けた牧師や宣教師ばかりでなく、人々の救いに特別に重荷を持つ「伝道に献身的」なすべての信徒を指すといってもよいでしょう。

イエス様は働き人を「送ってくださるように父なる神に祈りなさい」と弟子たちに命じました。「魂が救われるように祈りなさい」と、ここでは命じてはいません。「魂の救いに重荷を持つ人々」が神様によって起こされ、神様から遣わされ、弟子たちの交わりに加わり、教会の宣教の働きが人材的にさらに豊かになるように祈りなさいと命じています。つまり教会は神によって召された人々の宣教の共同体であるという大切な本質が教えられているのです。教会は礼拝者たちの共同体として神様を垂直に仰ぎますが、同時に、宣教する共同体として地の果てまで水平方向を見つめなければなりません。宣教は人間の熱心さから始まるのではなく、神様が働き人を召されるところから始まります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ1616

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ213

このように、働き人は、「召しと賜物と重荷」とを神様から与えられた人々です。彼らは伝道者になろうとした人々ではなく、伝道者として神様から召された人々です。だれも神の召しにさからうことはできません。太平洋ラジオ放送局の村上宣道先生のように、牧師家庭に生まれ伝道者だけにはなりたくないと思って父親に逆らってばかりいた子供が、神に召されてやはり伝道者になるのです。国際線の副パイロットをしていて将来何の生活の不安も無い人が牧師として召されて開拓伝道を始めました。現役のお坊さんが召されて牧師になりました。神が選ばれ神が召されたならばだれもとめるこができません。

神はご自身が選ばれた者を召し、遣わし、用いられますが、ある人を大リバイバリストとして用いることもあるますし、ある人を福音が届かない辺鄙な地域で生涯、数十人の人々をキリストのもとに導くために用いられることもあるます。結果が召しを証明しているわけでは決してありません。どんな困難さの中でも召しに最後まで忠実に仕えぬいたことが、召しを証明しているのです。そしてこの忠実さこそが神様からの賜物なのだと私は思います。神様の召しに忠実に生きるならば、そこには喜びが満ち溢れます。忠実さと心の喜びそのものが働き人たちへの神様からのすばらしい賜物なのです。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ2521

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録210

日本全国で牧師の数は8000人と言われています。そのほとんどが経済的には困難さをかかえながら召しに忠実に喜びをもって歩んでおられます。しかしながら高齢化が進み、引退する牧師の数が年々急増し、日本のキリスト教会の将来が危ぶまれています。私たちは今、「収獲の主に働き人を送ってくださるように」祈るべき「とき」にきているのです。

牧師の数が足りなければ信徒の中から働き人がおこされることでしょう、韓国や台湾から多くの宣教師が日本にやってきて働きを進めることでしょう。神様からの召しと神様の召しに忠実に歩むという賜物を持つ働き人が多く起されるように祈りましょう。

2 重荷

最後に「重荷」についてお話します。召しと賜物は神様からのものですが、重荷は私たちの中から生まれるものです。宣教に重荷を持つとはどういうことでしょうか。

イエス様は「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに」(36)思われました。「かわいそうに思った」と訳されたことばは、単なる同情や一時的なあわれみをさすことばではなく、お腹のそこからわきあがる熱いいつくしみの思い、手をさし伸ばせずにはおれないほどの強い愛を指す言葉です。ルカの福音書では、放蕩三昧の限りを尽くしながら人生に行き詰まり悔い改めて帰ってきた息子を遠くから見つけて「かわいそうに思い」、じっとしておれず思わず駆け出して息子を抱いた父親の胸中を現すことばとして用いられています。イエス様の中にみられた行動せざるをえないほどの深く強い愛はやがてカルバリの丘の十字架の愛として全世界に明らかにされたのでした。

澤田美喜さんは戦後、アメリカ兵との間にたくさん生まれた混血児たちが孤児として捨てられていることを悲しみエリサベツサンダーホームという施設を創立し、生涯2000人近い混血児を育て、「混血児の母」と呼ばれたクリスチャン女性でした。岩崎家・三菱財閥の長女として生まれましたが反対を押し切ってクリスチャンとなり外交官の妻として活躍していました。四十歳過ぎのある時、旅行中に汽車がカーブを曲がった瞬間に、彼女の足元に棚から荷物が転がり落ちてきました。中をほどくと、新聞紙に包まれた混血児の赤ちゃんの遺体がでてきたのです。「お前の子供だろう!」と警察に疑われ逮捕されそうになりましたが、荷物を棚に置いた母親が別の駅で降りたとの乗客の証言があり彼女の疑いは晴れました。しかしその時、彼女に、「たとえ一時でもあなたがこの子の母とされたのなら、捨てられていく多くの混血児の母となってやらないのか」とイエス様の声が聞こえてきたのでした。それは彼女へのイエス様からのミッションであり、彼女の重荷となりました。

混血児の遺体を見て彼女がそこで流した涙は、イエス様が失われゆく魂を見て流された涙と同じでした。イエス様の涙を共有することができることが「重荷」なのではないでしょうか。働き人の心をしめるただ一つの思いは「失われゆく人々への愛」です。宣教の重荷は私たちがイエス様の心を私の心とさせていただくことにほかならないと思います。

主の召しに忠実な働き人が起されるように、私たちの国の宣教の働きが豊かな実を結ぶことができますように、私たち一人一人が「宣教する教会」を形成してゆくことができますように、お祈りしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

2007年7月22日 主日礼拝




  

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