第25日  からし種一粒の信仰

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、
あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、
この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。
どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
(マタイ
1720



今日は朝から雪が降る中ですが、こうして礼拝をささげることができる幸いを感謝します。


1 からし種と生きた信仰

今日は「からし種一粒の信仰」という主題でお話します。先週から月一度、日曜日の午後に有志たちによる「説教塾」が始まりました。CSの教師や家庭で集会を開いているかたがたから、聖書をもっと学びたい、聖書の正しい読み方を学びたい、聖書からみことばを語りたいとの願いが起き、このような小グル−プでの学びが始まることになりました。ですから説教者としてじっと観察されているところを感じて今朝は少々緊張しています。

さて、ある時、弟子たちのところに一人息子の病気の癒しを求めて父親がやってきました。幼い頃からてんかんの発作を起し、火の中や水の中に飛び込んでしまい大怪我をするので心配でたまらなかったのです。てんかんと訳されたことばの原語は「月の病」という言葉であり、後にイエス様はこの子供から悪霊を追放していますから厳密な意味で脳の損傷や神経の異常とみられている医学上の「てんかん」とは異なるかもしれません。あいにくイエス様は他の3人の弟子たちと祈りに出かけておられ不在でしたが、父親はイエス様のお弟子たちなら癒すことができると期待していました。ところが弟子たちは何もできませんでした。マルコの福音書(922-25)ではさらに詳しくこの出来事が記されていますが、失望した父親はイエス様に対しても「もしできるものならば、わたしたちをあわれんでください」と半信半疑の気持ちで祈りもとめました。するとイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(923)と叱責されました。父親はすぐさま「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と不信仰を悔い改めて願い求めました。その時、イエス様はその息子から悪霊を追い出し、病を癒されたのでした。

イエス様が帰ってきた後、弟子たちはイエス様のもとにひそかに来ました。恥ずかしかったのでしょう。そして「どうして私たちにはできなかったのですか」と自分たちの無力さを訴えました。するとイエス様は「あなたがたの信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば山をも動かすことができる」と弟子たちを諭しました。マタイ自身も何もできなかった9人の弟子の一員であり当事者でした。マルコのように出来事を詳しく書くことを省き、かわりに「信仰が薄い」と諭されたイエス様のことばを書き残しました。それほどまたいの心にイエス様のこの言葉は重く深く残ったにちがいありません。

では、山をも移すからし種のような信仰とはどんな信仰でしょうか。イエス様のことばを正しく理解するために、まずイエス様が使われた用語の定義を整理しましょう。

「信仰が薄い」(オリゴピスティアン)ということばは「信仰がたらない」とも訳されています。本来の原語は「信仰が小さい」という意味です。17節の「不信仰な曲がった時代」の「不信仰」には「ハピストス」という別のことばが用いられており「信仰を否定する・無視する」という意味をもちます。ですから「信仰が薄い」(小さい、足りない)ということばは信仰がないという意味ではありませんが、十分に本来の機能が発揮されていない状態をさしていると考えられます。マタイの福音書では同じことばは、ペテロがイエス様をまねて湖の上を歩き始めたけれど、風の音を聞き、波を見て恐くなった途端に溺れてしまったとき、すぐに手を差し伸べてイエス様が「信仰が薄い者よ」と言われた時に用いられています。ですから、信仰の有無や、その大小よりもむしろ、信仰が生きて働いていないという意味がふさわしいと思われます。

何もできなかった9人の弟子の一人であったマタイにとって、「あなたの信仰が生きていないから」といわれた言葉は非常に重かったと思います。けれどもこのイエス様のことばが後にマタイを有能な働き人につくり変え、「福音書」を書き記すことにも通じたと思います。

「山を移す」という言葉は文字通りの意味ではなくユダヤの慣用句であり、「常識では解決できないような問題を解決すること」を意味します。難しいことを解決する人をユダヤでは「山を動かす人」と呼ぶそうです。

「からし種」とはユダヤの国では一番小さな植物の種のことです。実物を見ていただくとその小ささが実感できます。おそらく0.3mmぐらいではないでしょうか。もっとも世界で一番小さい種は、からし種ではなく日本の瀬戸内海沿岸に生息する「ミジンコ浮き草」の種だそうです。浮き草そのものが1mmにも満たないそうですからその草の種ともなればもっとさらに小さいことになります。ちなみに世界最大の種はやしの実で直径50センチにもなるそうです。神様は大小さまざまな種をおつくりになったものだと感心します。

からし種の特徴は種そのものの小ささよりも、種が成長すると木の高さが3m近くになる点にあります。わずか0.3mmの種が3メ−トルに達するとすれば、10000倍になる計算になります。驚異的な成長力を意味します。人間に換算すると0.1mmの卵子から10mの身長の人間になることを意味します。ですから、ユダヤでは小さいものが大きく成長することのたとえとして「からし種」がしばしば引き合いにだされるそうです。

埼玉新生教会の中村眞牧師が1つのからし種の房から1502粒の種を数え上げたそうです。1本のからし種の木にそれこそ数え切れないほど黄色い筒型の花が咲き、その花が枯れると房の中にたくさんの種を結ぶわけですが、1本のからし種の木から採れる種の数はおそらく天文学的な数字になると思います。

イエス様はある時、種まきのたとえ話をされ、良い地に落ちた麦の種は100倍の実を結ぶ力を発揮するといわれました。「 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ138

100倍になることでさえ大きな祝福とみなされているのに、からし種は10000倍に成長する力と何百万倍に実を結ぶ祝福の力を持っているのです。たった0.3mmにも満たない小さな種のなかに信じられないような力が秘められているのです。

これらの言葉を整理してまとめると、イエス様は弟子たちに向って「信仰があれば常識では解決できないような問題でも解決できるんだ。あの問題この問題が原因や理由ではなく、あなたがたの信仰が足りないことを自覚しなさい」と指摘されたことになります。

もう一度繰り返しますが、「あなたの信仰が足りない」ということばは「あなたの信仰がだめだ」ということでは決してありません。イエス様が弟子たちに伝えたかったことは「あなたがたの信仰が生きて働いていないのはもったいない。信仰には不可能と思える事態さえも変革することができる大きな力が秘められているのに、その力が十分に発揮されないのは惜しいことじゃないか」という意味になります。せっかく神様から信仰が与えられているのに、その信仰を働かせないから、結果的に無力感だけを感じてしまう。そして自分に与えられている信仰ではだめだ、もっと大きな信仰や強い信仰が必要かのように錯覚してしまうのです。

大きな奇蹟を起すには大きな信仰がいるわけじゃない。そうではなくて、必要にして十分な信仰はもう与えられている。信仰はからし種一粒ほどで十分。種が播かれたならば、大きさで比較すれば10000倍にもなる成長力がそこにはある。結ばれてゆく実の数で比較すれば数百万倍にもなる祝福の恵みがそこには秘められている。それを活かさなければもったいないじゃないか。それは信仰という世界最大の宝のもちくされだ。生きた信仰が大事なのだ。そんなイエス様の声が聞こえてきそうです。いかがでしょうか。

みなさん、数千億円の価値がある金の延べ棒が金庫の中にあるとします。どれほどの大きさの金庫がその保管のために必要なのか私には見当がつきません。金の延べ棒さえいまだに見たことがないのですから・・。しかし、金庫と同じ大きさの「鍵」がいるとは決して思いません。小さな鍵であっても鍵穴にフィットすれば金庫の扉をあけることができ、保管されていた数千億円の金の延べ棒を得ることができます。小さなからし種ほどの信仰であっても無尽蔵の神の力と祝福を引き出すことができるのです。天の扉を開くことができるのです。私たちは最初から人間の力と宛てにしているわけではありません。私たちは神様の中に無尽蔵の力と祝福の源を見出してるのです。信仰はその宝が隠されている扉を開ける鍵のような価値ある存在です。鍵なくして扉は開かないのです。


2 信頼と生きた信仰

信仰には、山をも動かすことができる力があるとイエス様は弟子たちに語りました。信仰(ピストス)という言葉は忠実とも信頼とも訳せますので文脈によって判断します。生きた信仰は、天地を創造された全能者なる神様に信頼し、御心に忠実に生きようと志します。

マリアは天使から「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ137)と告げられた時、神様のことばを信じました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(138)と、神様のお約束に信頼し、御心に忠実に従おうと志しました。ここに生きた信仰を見ることができます。

パウロは「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ413)と告白しました。信仰は神様の力を引き出すのです。信仰によって創造主なる神様の全能の力を注ぎこむのです。よみがえられたイエス様の復活の力をその魂に注ぎこませることができるのです。パウロもまた生涯、信仰に生きた人であり、からし種の信仰を生かして、神の恵みを日々味わいながら神とともに生きた人でした。

もう一つ、生きた信仰を考える上で大切なことがあります。生きた信仰は全能者なる神様への忠実さと信頼ばかりではありません。生きた信仰にはすべてにおいて愛が働いているということを覚えたいのです。生きた信仰は愛によって形作られています。


3 愛と生きた信仰

パウロは「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(1コリ132)と言いました。そして一連のメッセ−ジの結論として「愛を追い求めなさい」(1コリント141)と命じています。

この愛とは天の父なる神様への愛、十字架で死なれたイエス様への愛、神様の赦しの道を知らないまま罪のゆえに失われゆく人々への愛を意味しています。愛を動機としないなら、たとえ山が動いたとしても何の価値もなく、無益だとさえ教えています。

信仰は「愛」を動機とするときに大きな力を発揮します。イエス様が「あなたがたの信仰が足らないからだ」と弟子たちにいわれたことばは「あなたがたの愛がたりないからだ」と置き換えることもできるのではないでしょうか。問題が解決しないのは、力がないからじゃない、愛がないからです。あの問題、この問題があるから進展しないのではありません。お金がないからではありません。信仰が薄いからです。あの人がいるから問題が大きくなってしまうわけでもありません。問題は、あの人が悪いのではなく、あなたに愛が足りないからです。

ある人が喫茶店を開業しました。順調に経営がすすんでいるのでできればお店を広げたい、できればとなりの学習塾を買い取りたいと思いました。思い切って交渉に行くとにべなく断られました。あまりはやっているようすもなかったので心の中で「つぶれたらいいのに」と祈るようになりました。そうすれば隣を買うことができるからです。ところがある時、考えが変わりました。愛がなければすべてが空しいと悟ったからです。愛を基調において問題の解決を図ろうと考え、彼は新しく祈り始めました、「神様、となりの学習塾を繁盛させてください。どんどん生徒が押しかけて儲けさせてやってください」と。するとどうなったでしょうか。塾にだんだん多くの生徒が集まるようになり活気にあふれ、とうとう部屋が狭くなってしまったので他の広い場所に移ったそうです。そして空き家になった家を彼は買うことができたそうです。これが愛を基調にして信仰を働かせるということです。

大切なことは、愛によって信仰を働かせることです。愛は信仰にいのちを吹き込みます。信仰を活気あるものと促進させ成長させます。愛によって、困難な問題も解決し、「山が動く」ことを経験することができるのです。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、
愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ56

私たちの教会は、ここ数年、教会堂の問題に直面しています。礼拝堂が狭すぎてお年寄りや障害をもった方々にとって優しい会堂ではなくなってきています。その必要を満たすことができなくなっています。狭い空間にはその空間をほどほどに満たすだけの人しか集らないという社会法則があるそうですが、納得できる部分もあります。人口密度の高く人間との接触度が高い場所にわざわざ人は安らぎと平安を求めようとはしません。

そんな中で状況の中で会堂建築を祈り始めていますが、高齢者や退職者、専業主婦も多い小さな教会ですから経済的な力には限界があります。しかし神様にご奉仕をささげるにあたって、本当の問題はお金のことではなく、一人一人の愛と信仰の問題ではないかと教えられています。もちろん経済的な計画はしっかりしなければなりません。しかしそれでも一番大切なことは、お金があるかないかが大事なのではなく、愛によって働く信仰があるかないかが大事なのだと思います。愛によって働く信仰が、キリストの教会と教会堂を建てあげてゆくことができるのです。

イエス様は何もできなかった無力な弟子たちに「あなたの信仰が薄いからだ」と本質的な問題を指摘されました。マタイはイエス様に指摘されて目の醒める思いをしたことでしょう。

私たちも今朝、もう一度、一人一人にすでに「からし種」の信仰、十分すぎるほど豊かに成長し実を結ぶことができる信仰が神様からの贈り物として与えられていることを感謝しましょう。そしてその信仰が生きた信仰として愛のうちに働き、「山を動かしてゆく」ことを大いに期待し待ち望みましょう。愛は山を動かすのです。からし種一粒の生きた信仰が「山を動かすのです」。

「いっさいのことを愛をもって行ないなさい」(1コリント1614

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」
1ヨハネ419


2008年2月24日 主日礼拝




  

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