第26日  どんなことでもそれは可能です

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」
(ピリピ4・13)




今日は、このみことばから「信仰による可能性」という主題でメッセ−ジを語らせていただきます。

子供の頃、何度も転びながらやっと自転車に乗れるようになった時の喜びは忘れません。振り返ってみると、挫折や失敗も多く重ねながら自分が願っていたことが実現した喜びを一つ一つ思い起こすことができます。大学に合格できたこと、バレ−ボ−ル部の主将になって3部リ−グではあったけれど優勝したこと、学生時代からの友人と結婚できたこと、息子が生まれとまどいながらも父親になったこと、牧師になって5年目に小さいながら新しい会堂を神様におささげできたこと、数えればきりがありませんが、自分の願っていたこと望んでいたことが達成できた、実現できた時の喜びは確かに生きるエネルギ−になっていると感じます。皆さんはいかがでしょう。

「何かが実現できた」という時、そこには三つの種類が考えられると思います。一つは、「運」です。たまたまサ−ビス品としてもらった宝くじで1億円があたった。家を買うことでき念願のマイホ−ムが実現したというようなケ−スが考えられます。第2は、「日々の努力の積み重ね」です。試練があってもあきらめないで最後までベストを尽くすなかで良い結果を得たようなケ−スです。苦労が多かったぶん、達成感もひとしお大きいことでしょう。第3は、自分の才能や能力や熱心さや努力ではなく「神様の導きによって」、実現させていただいたというケ−スです。この場合は「〜をした」「〜ができた」というよりは「させていただいた」あるいは「おつかえできた」という喜びと実感が伴います。

クリスチャンとしての実際の歩みは2番目と3番目がミックスされていると言えばよいかと思います。

旧約聖書は「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。」(箴言6:6)と教えています。新約聖書でパウロは「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ロマ12:11)と教えています。 クリスチャンの中に、「地道な努力や勤勉さ」と「霊に燃えて主に仕える」ことが美しく調和している時、周囲の人々はそこに神様のすばらしさを見ることができるのではないでしょう。

1 あきらめない強い心

地道な努力とは途中で無責任に放棄しないことだと私は思います。最後まで投げ出さない、あきらめないことです。あきらめない強い心ということで私には忘れられない思い出があります。私は毎年お正月には、高校ラグビ―全国大会を花園ラグビ−場で観戦しています。私のお正月の年中行事です。高校生たちのひたむきな全力プレ−を見ていると心が熱くなります。高校・大学とスポ−ツをしていたので血が騒ぐのかもしれません。

今年は惜しくも決勝戦で破れてしまい優勝を逃がしましたが、私は地元の京都伏見工業高校を ずっと応援しています。「泣き虫先生」と生徒から慕われた山口良治総監督の熱血姿勢にもたいへん共鳴しています。その京都伏見工業高校が2年前の準決勝戦ではロスタイム残り十三秒をきったところで、劇的な逆転トライを決めました。プレイが中断した時点で試合終了の笛がなるというギリギリの緊迫した状況の中で、選手たちは次々とボ−ルを繋ぎながらゴ−ルラインを目指して走り続けました。怪我で休場していたウィングの俊足選手が試合の後半から出場しましたが、ついにラストボ−ルが彼にパスされました。彼は俊足を飛ばしてサイドラインぎりぎりを疾走し、相手選手の激しいタックルを受けて倒されながら右隅に劇的な逆転トライをしたのでした。審判のトライの判定とともに固唾を呑んで見守っていたスタンドの応援団は全員が総立ちとなり、大歓声をあげました。私の隣に座っていたおばあさんまで飛びはねて喜んでいました。

まさかと思うような奇蹟的な逆転劇を目の前にしてしばらく私の興奮も醒めませんでした。人生に奇蹟は起きる。人生に不可能はないと心底、感動しました。試合終了の笛がならされる最後の瞬間までけっしてあきらめない強い心がこのような劇的な勝利を招いたのだと思います。そしてそのような強い心は、「練習の虫」と呼ばれる彼らの日々の努力なくしては生まれなかったことでしょう。

スポ―ツであれ、勉強であれ、仕事であれ、地道な隠れた努力なくして喜びや達成感を得ることはできません。だから選手たちは優勝した次の日から1年後の優勝を再びめざしてさっそく練習を始めているのです。

教会の宣教の働きも同じことが言えると思います。 祈りや個人伝道やトラクト配布といった地味な奉仕の積み重ねの中で、一人の魂が救いに導かれることを忘れてはなりません。結果が目に見える形ですぐに現れなくても、あきらめずに最後まで最善を尽くしつづける心、それは神様を愛し、教会を愛し、失われてゆく魂を愛する愛に他なりません。「霊の燃え主に仕える」(ロマ12:11)心を大切にしたいものです。地道に努力する忠実な人を、神様はきっと愛してくださることでしょう。

2 キリストの力によって

もうひとつ、「わたしができた」という喜びの世界ばかりでなく、「わたしがさせていただいた」という喜びの世界があります。「私は私を強くしてくださる方によってどんなことででもできる」(ピリピ4:13)と告白できたパウロのことばに注目しましょう。

パウロにとって、「私を強くしてくださる方」は、彼を罪と死の力から解放し喜びと自由を与えてくださった神の御子イエスキリスト以外に存在しませんでした。キリストは十字架で死なれましたが、死の力を打ち破り復活されました。死は最初の人間アダムが罪を犯して以来、全人類を支配してきました。誰一人例外を認めませんでした。誰も打ち砕くことができなかった不倒の死の壁をキリストはついに砕かれたのでした。キリストの復活の力・偉大な力によるならば、「不可能なことは何もない」とパウロは告白しています。

繰り返しますが、世界最大の力とは、ダイナマイトや原爆の力ではありません。大地震や巨大津波の破壊力でもありません。それは「死の力」です。全人類にとって死の力は決定的・絶対的なものであり、、一人の例外も認められません。人は生まれた時からすでに死の力に支配されているのです。ところが、キリストはこの死の力をついに打ち砕き、墓を空にし、ただ一人、死から復活されました。さらに、よみがえられたキリストは信じる者の心に聖霊とともにきてくださり、信じる者の心を住まいとしてくださいます。キリストのことばとキリストの御霊が内に宿って、私たちを強めてくださるのですから、もはや恐れる事はなにもないのです。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」
(2テモテ1:7)

私は子供の頃から人前で話すのがたいへん苦手でした。ちゃんと話さなければならない、上手にしなければならない、失敗しちゃいけない、笑われたらどうしよう・・などなど思い始めると、あっというまに「心配」の風船が大きくふくらんでパンパン状態になってしまいます。 そうすると完全にあがってしまうのです。顔は真っ赤になり、頭は真っ白。もう紅白饅頭状態になって本当に困りました。大学時代までこうした状況が続いたことを覚えています。

しかし、イエスキリストのことばと御霊の力を知った時に、大きな平安を心にいただきました。自分の力で頑張り抜くのではなく、救い主キリストに委ねきることを学びました。「イエス様がしてくださる」と思うとスッと力が抜け自然体でいることができるようになりました。イエス様が与えてくださる「心の自由」開放感」を経験したのです。 

よみがえられたキリストは、キリストを信じる者とともに歩んでくださいます。あなたは決してあなた一人だけで人生を歩んでいるのではありません。よみがえられたキリストがあなたと共に、あなたの心の中に、もっともあなた自身に近い場所で、あなたを強め、あなたを励まし、あなたに喜びを与えてくださっているのです。あなたもパウロのように「私は私を強くしてくださる方によってどんなことででもできる」と言うことができるのです。

3 主の御心によって

旧約聖書にたいへん興味深い出来事が記録されています。イスラエルの民がモ−セに率いられて紅海を渡った時、モ−セの前には二つのル−トがありました。北上してカナンの地への最短コ−スを進むか、東へ進みシナイ半島を迂回して進むか。もちろんエジプトに引き返す選択肢は論外でした。狭い地域に留まることも死を意味していました。そこでモ-セは各部族長たちを召集し、カナンの地に偵察隊として派遣したのでした。彼らは全地をひそかに行きめぐり帰還して調査結果をモ−セと民衆に報告しました。約束の地はたいへん肥沃な良い土地であるが、すでに先住民が町を建て堅固な城壁を築いている。ここを勝ち取ることは並大抵なことではなく、多くの犠牲を強いられると悲観的な状況を報告しました。楽観視していた会衆の中に不安と恐れが一気に広がりました。こんなことならエジプトに奴隷として留まっていたほうがまだましだといいだす者まであらわれました。

困難な状況の時になればなるほど、その人の人柄が現れてきます。信仰のありのままのすがたが見えてきます。状況に信仰が左右されるか、信仰によって状況を左右することができるかが見えてきます。

その時、カレブが「今、上ってそこを占領しよう。必ずそれができるから」(民数記13:30)と、信仰に立って会衆を勇気づけました。翌朝には、一晩祈りぬいたヨシュアも「主にそむいてはならない。人々を恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだから」(14・9)と、神様のみこころならば、神様がともにおられるので何も恐れることはないと、カレブと共に会衆を励ましました。

カレブとヨシュアは、突き進むことしか知らない猪突猛進型の人ではありませんでした。彼らは神様の約束という揺るがない土台にしっかり立つことができる信仰の人でした。神様が父祖アブラハムの語られたお約束が今、成就し始めたことをしっかり認めることができたのです。

カナンの地に住む原住民の数の多さ、軍事的な優位さ、町の強固さに目を向けたのではなく、神様の御約束に目を向けていたのです。 

400年にもわたる奴隷生活から神様はモ−セを通してイスラエルを解放してくださった。海をまっぷたつに分けその真ん中に道をつくり対岸へと導いてくださった。世界最強のエジプトの戦車部隊を海のもくずとしてくださった。エジプトを脱出し砂漠での厳しい生活が始まるや否や「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって民を日夜、守ってくださっている。主はアブラハムに誓われた約束をこうして今、実現しようとされている。カナンの地に住む原住民がどんなに強力であっても、「神がともにおられるならば、恐れることはない」と、神の導きを顧みたときに確信できたのです。

霊的な指導者の姿が、ここにあります。神様の約束があるところには、神の臨在と神の恵みが伴うことを信じる生きた信仰が満ちています。

中国宣教の父と呼ばれたハドソン・テ―ラ―は自分の宣教活動の生涯を振り返って「神が始められたことに神からの供給は絶えない」と言いました。私はこのことばを個人的にたいへん大切にしています。よく祈って、神様の御心であり、神様がこの働きをお始めになると確信できた時は、必要は満たされると信じて従ってきました。


4 自らの価値を否定してはなりません
    弱く小さくてもそれは問題ではないからです

カレブとヨシュア以外の各部族長たちは口々に、厳しい状況を語り、躊躇しました。特に悪名高い巨人族ネフィリムが住んでいては、手が出ない。エジプトから逃げ出してきた無力な我々には彼らと戦う軍事力がまったくない。武器なければ兵の訓練も全くできていない。まだイスラエルは「群集」であって「民」として組織化されてもいない。各部族を束ねる「憲法」も制定されていない。何より非戦闘員である女・子供・老人たちはどのように守ればいいのかなどなど、冷静に判断すれば「マイナス要因」しか浮かんできません。その中でついに彼らは巨人ネフィリムに対して、無力な我々は「小さないなご」に等しいとさえ自嘲し嘆きました。

自分たちの存在を「バッタ」にすぎないとさえ言ったのです。それは「謙遜」ではなくむしろ「自己卑下」です。 信仰がゆらぎ、神様を見失い、神の選ばれた民であるとの誇りを見失うと、いつも周囲の人々と自分たちとを比較して、自分の存在価値をこのようにしかいえなくなるのです。

のちにイスラエルの民は、神様が無力で貧しく何も待たない自分たちをどのようにご覧になっておられるかをすでにモ−セを通して知らされていました。

「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人に
あなたの語るべきことばである。」(出19:6)

彼らは聖なる国民であり、神の特別な愛と恵みの中に置かれていました。決してバッタのような存在ではないのです。神様の目にはもっとも高価で尊い存在と映っているのです。神様がもっとも愛しておられるご自分の民をお守にならないはずがありません。

TEV英語聖書では「かならずできる」が「イナフ・ストロング」と訳されています。神様は全能の主であり「十分なるお方です」。神様が味方なら、たとえいなごのように私たちが無力で小さな存在であっても、十分強いのです。なぜなら神様が戦(いくさ)を導かれるからです。

私たちは無力な存在でも、イエス様は強いお方です。 父なる神様の御心を行なう十分な力をもっておられます。ですから、主イエスに信頼してゆく時、私たちは神様の御心を一つ一つ形にしてゆくことができるのです。

「私は、私を強くしてくださ方によって、どんなことでもできるのです。」
(ピリピ4・13)

「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(第2コリント12:10)

今年も主の恵みを仰がせていただきましょう。


2008年1月6日 主日礼拝





  

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