17 使徒信条  題 「生徒でなく聖徒、聖人でなく成人」  2004/10/24

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これがわたしのあなたがたに与える戒めです」(ヨハネ15:17)


使徒信条は聖なる「公同の教会」は「聖徒の交わり」であると告白しています。聖書ではすべてのクリスチャンを聖徒と呼んでいますが、この言葉をいわゆる聖人君子、完全な人という意味では用いていません。今朝は「聖徒」に焦点をあてて学びましょう。

1 教会は「罪赦された罪人たち」の交わりです

「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です」(1コリ1:2)

パウロはコリントの教会のクリスチャンを聖徒と呼んでいます。コリントの教会は仲間割れ、偶像礼拝、不道徳な結婚問題などを抱えた問題の多い教会であり、パウロを悩ましていました。にもかかわらず、パウロは教会員に対して「神に召された聖徒」とはっきり呼びかけています。

クリスチャンが聖徒と呼ばれたのは、彼ら自身が清く完全であったからではありません。御子イエス様が聖いお方であり、イエス様の十字架の血が聖く、クリスチャンを罪から清めてくださったからです。

ですから聖徒とは、イエス様の十字架の血によって「罪を赦された罪人」を指します。

1ヨハ 1: 7 私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

1コリ1: 30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

もしイエス様の十字架の赦しがなければ、私達は自分のどこを探しても清さを見つけ出すことは難しいと思います。「あの人たちよりはまだまし」という相対的な清さはあっても絶対的な清さは私達の中にないからです。イエス様が私たちの聖さとなってくださいました。イエス様の十字架の血によってすべての罪から赦され、私たちは聖い者とみなされたのです。

聖徒の交わりが「罪赦された罪人の交わり」であるならば、お互いに謙虚であることが求められます。新約聖書の中に手紙類は21通あり、全体の35%の分量を占めています。もともと手紙が書かれた理由は宛先の教会に深刻な問題や課題があり使徒たちの指導を必要としたからでした。問題がないような教会は2000年前から存在していません。問題があることが問題なのではなく、その問題と思われる課題をどのように解決してゆくかが真の問題なのです。問題解決の第1歩は「謙虚さ」にあります。

私たちは極端なほどものごとを理想化してしまう傾向をもっています。決してそれは悪いことではありませんが、しばしば現実を見据える客観的な判断能力を奪い取ってしまうことがあります。力のない弱い不完全なものたちの交わりの中に完全さを過剰に期待したり要求すれば交わりは壊れてしまいます。不完全さが裁かれ非難されるなら誰だって防衛的になり、本音が言えなくなり、弱さを隠すようになり、結果として見せ掛けだけの交わりになってしまうきらいがあります。証しや祈りを率直に分かち合えない教会は会話のない家庭と同じでそこには淋しさや空しさが漂っています。罪赦された罪人としてのお互いに対し、誇らず理想化せず謙虚でありたいと思います。

真の交わりを築くために謙虚さは大きな要素を占めています。自分の弱さが強められ必要が満たされるように他の人の助けを素直に求めることは、その人の無能力さを表すのでなく、むしろ高い能力の一つの表れだと思います。他の兄弟姉妹に祈りを求めることは傲慢な人や自分の力を過信している人にはなかなかできません。見栄やプライドが赦さないからです。しかし謙虚な人は、自分の弱さを知っており、構えをすてて心を開いていますから、他の人の助けを素直に求めることができるのです。

罪を赦された罪人の交わりだからこそ、他の兄弟姉妹の祈りを必要とします。謙遜さの中から教会はやがて「真実な祈りの群れ」となり成長します。

「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」(エペソ5:25)とイエス様が「罪赦された罪人の交わりである」教会を心から愛してくださったことを聖書は教えています。

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤを通して明らかにされた神様の愛は、イエス様のまなざしの中に完全な形で結実しています。イエス様はそのまなざしで、弱く失敗だらけの弟子たちを見つめ導いてくださいました。イエス様が私達をごらんになってくださっているまなざしをお互いに向けあうならばどんな喜びが満ちることでしょう。

紀元258年、キリスト教会は秘密の宝物を隠しているという噂がロマ皇帝の耳に入り、ロマ教会の助祭の一人ラウレンテスが皇帝の前に呼び出されました。そのとき彼は、彼が世話をしている極度に貧しい人々、目の見えない人々、手足の不自由な人、不治の病にかかっている人たちを皇帝のもとに連れてゆき、こう言ったそうです。「これらの人々は光の子供たちであり、教会の真の宝、教会の金、真珠、宝石です」と。皇帝が目をそむけ顔をしかめるような貧しい人々が、ラウレンテスにとっては教会の宝、高価で尊い人々だったのです。イエス様と同じまなざしを彼もまたイエス様から与えられていたのです。

2 教会は「キリストのものとされた人々」の交わりです

聖いと訳されたことばは「神様のために聖別され、選び分けられた」という意味です。聖い神様が「これは私のもの」と言われ、「所有物」とされたゆえに聖いのです。アメリカ大統領が来日し100円ショップで1個100円のペンをたいへん気に入って買ったとします。今もずっと愛用されているとすると、このペンはその値段がたとえ100円であっても他のペンとは異なる特別な価値を持つペンとなります。この世にはそれ自体の持つ価値とそれを誰が持っていたかで評価される価値がありますが、聖徒ということばは明らかに後者の価値に基づいています。

1テモテ2: 6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」

「贖う」ということばは奴隷を買い戻すという意味であり、イエス様がわたしたちを買い取ってご自分のものとされたことをしめしています。つまりイエス様が私達クリスチャンの新しいそして永遠の主になられたのです。ですから、私達の所有権は持ち主であるイエス様に移されているのです。

1コリ6: 20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」

1コリ7: 23「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」

イエス様が持ち主になっていただくことは光栄なこと幸福なことです。私達はしばしば自分と自分の人生を大切にできなくなり弄んでしますことがあります。自分の人生を途中で放り投げてしまうこともあります。先日もインタ−ネットで知り合った6名の男女が車の中で集団自殺をするという事件がありました。だれも自分の人生に何の意味も見出せなかったのでしょうか。自分が自分の人生の持ち主であるかぎりこのような悲劇は繰り返される可能性があります。

しかし、あなたの人格と人生の新しい持ち主となられたイエス様はあなたを決して粗末に扱われません。あなたを使い捨てになさることもありません。ほったらかしにして忘れ去るようなこともありません。あなたの価値を誰よりも良く知っておられ、あなたに賜物をお与えになったお方でもあるのですからあなたのことを熟知しておられます。イエス様はあなたを父なる神様のご目的のために用いたくてしかたがないのです。

このようにイエス様が私たちの主であり、真の持ち主であるとすれば、私達は持ち主であるイエス様のしもべとなります。しもべということばは古臭いことばですから若い人々にはなじみがうすいかもしれません。神様のために身をささげて仕えようとする人々ですから「献身者」ともいいます。その意味で教会は「キリストのものとされた人々の交わり」であり「献身者の交わり」と表現できると思います。

現代の教会は聖徒の交わりというよりは、生徒の交わりのような気がします。出席し教えをいただいて一生懸命学び続ける「良い生徒」たちが増えているように感じます。学ぶことは素晴らしいことです。しかし教会は学校や塾ではありませんから、生徒でなく聖徒を必要としていると思います。学校や塾は他の誰かのためではなく自分のためにありますが、教会は自分のためではなく神様の御心が地においてなされるためにあります。神様の御心のためにお仕えしよう、お役に立たせていただこうとの願いが心を大きくとらえたとき、その人は生徒から聖徒に、集会や礼拝の出席者から献身者へと変えられたのです。聖霊は教会を聖徒の交わりと引き上げ、出席者を献身者に変え、教会員をイエス様のしもべに変えてくださり、神の畑に働き手として遣わそうとされておられます。

マタイ9: 37−38 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

第3に教会は「キリストにある成人たち」の交わりです

教会は「聖人君子の集まり」である必要はありませんが、「キリストにある成人の集まり」であることが期待されています。聖書は、聖霊によって新しく神の子として新生体験をしたすべてのクリスチャンたちが、生れたばかりの乳飲み子からキリストにある成人へと成長することを教えています。成長は神様のみこころです。教会がいつまでもベビーサ―クルであっては主が喜ばれません。

コロサ1: 28「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」

何をもって幼子と成人を区別するのかはとても難しい課題です。人間なら年齢や姿かたちで判断できますが、内なる人の霊的な成長については外側から判断できませんしすべきではないと思います。霊的な成長について聖書は次のように教えていますから、各自が祈りの中で自己チェックしていただくための参考になればと思います。みことばを聞いて自己を見つめ、聖霊に導かれて自分のあり方を修正して行けるならばまさにそのことが「キリストにある成人」の姿だと思います。

1)2コリ10: 15 私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。 宣教や教会形成のための「働きが広がること」に仕える姿は成人の特徴です。お世話されたり教えを受ける段階から、働きを担う段階に、その働きがさらに広がるために賜物がささげられてゆく姿は成人と呼ぶにふさわしいといえます。

2)2ペテ 3: 18  私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

 キリストの恵みをみずからが経験しそれを証しすることができ、知識においても他の人を導くことができる姿もまた成人のあり方を映しています。

3)2テサ1: 3 なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。

 愛が増し加わること、とくに神の家族である教会員の相互の愛「兄弟愛」が増し加わることが成人のしるしとみなされています。愛が増し加わるとは、愛を受けるばかりでなくむしろ愛を与えることができることを意味すると思います。愛されることを求めるばかりでなく、自らがよろこんで愛することができるようになるのは成人のしるしといえます。王様のように自己中心に振舞うことが幼児性のあらわれであるならば、しもべあるいは献身者として神様に自発的に仕えることができるならば、霊的な成人のしるしと言えます。相互に、お互いにということばは聖書の中に50回以上用いられていますが、それほどお互いの愛の関係を聖書は大切にしています。

 

神様は私達が聖人ではなく罪赦された罪人に過ぎないことを良く知っておられます。その上で神様はわたしたちが生徒から聖徒へ、教会員から献身者へ、出席者から働き人へ成長することを願っておられます。


祈り

私たちは罪の中から十字架の御救いへと招かれました「罪赦された罪人」に過ぎません。だからこそ自分を誇ることなくただ神の恵みを喜び感謝するものとしてください。神の恵みに深く感謝するものであるゆえに、恵みに応答してあなたにお仕えすることをいよいよ喜びのうちに導いてください。

    
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