16 使徒信条  題 「我は聖なる公同の教会を信じる」  2004/10/17

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を
建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ16:18)


使徒信条は、第3番目の大きな告白として「我は聖霊なる神を信ず」と告白します。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのち、これらの賜物はすべて聖霊を通して神の子供たちに与えられる父なる神様からの贈り物です。そして神の賜物の第一に、「教会」があげられていることを私達は繰り返しかみしめなければならないと思います。イエス様を信じた人々が教会に所属し神の家族として愛と信仰の交わりの中に生きることを父なる神様はご計画されました。ですから賜物の第1に教会をあげておられるのです。

1 公同の教会とは

公同とは普遍的という意味で、全体として一つであることをさします。ですから、「公同の教会」とは、時代・民族・文化を超えて存在している、目に見えない普遍的な唯一の「キリストの教会」を指します。イエス様は「私はこの岩の上に私の教会を建てる」とはっきり約束されました。この約束にもとずいて世界にたった一つのキリストの教会が存続しています。

この一つの教会、公同の教会は主イエスキリストのものであり、イエス様がお建てになり、守り、そのかしらとして御支配されています。地獄の力が教会に押し寄せようと公同の教会が破れさることはありません。迫害や無神論や物質主義が教会を飲み尽くそうとしても、公同の教会はその永遠の価値を失うことはありません。永遠に聖なるものとされています。キリストを信じるすべてのクリスチャンは、キリストにあって一つの家族、一つのからだ、ひとつの公同の教会に招かれ、組み入れられ、所属しています。公同の教会に属するすべてのクリスチャンは、大人も子供もプロテスタントもカトリックもさらにユダヤ人クリスチャンも、やがて完成する一つの神の国の正式な民とされています。

パウロはエペソ4:3−5にて「主は一つ、信仰は一つ、体は一つ、御霊は一つ、すべてのものの父なる神は一つ」だから「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保ちなさい」と、公同の教会に生きる精神を教えています。

一方、このような「公同の教会」に対して世界の各地、日本の各地にある、目に見える個々のキリスト教会を「地域教会」と呼びます。地域教会にはさまざまな特徴や歴史的背景を持つ教会があり、教団教派に属す教会もあれば単立教会もあります。私達、クリスチャンはみな目に見えないキリストの唯一の教会・公同の教会に所属していますが、同時に目に見える地域教会にメンバーとしても所属します。

2 公同の教会の一員として地域教会との正しい関係に生きること

 キリストを信じて新しく誕生したクリスチャンはみなキリストの公同の教会に所属しています。次に必要なことは健全に信仰が育まれ成長できるように目に見える地域教会にしっかりと所属することです。

たとえば、私に子供がうまれれば生れた瞬間からその子は自動的に全人類の一員です。戸籍登録を済ませば日本国民の一人として法的に守られます。家庭においては小出家の一員です。赤ちゃんはこのような保護の中で守られ育てられ成長します。生れた赤ちゃんがどこの家庭にも所属せず放置されたままなら健全な成長は望めませんし、命さえ危険にさらされてしまいます。

神様は、公同の教会に所属するクリスチャンが目に見える地域教会にしっかり所属することを願っておられます。聖書は目に見える地域教会に所属しない孤立したクリスチャンを想定していません。

「自分ひとりでもイエス様を信じて生きているからいい、教会に属することで献金や奉仕といった責任も生じるし、人間関係もややこしいし、日曜日にわざわざ出かけるのも面倒だし」と考えるクリスチャンがもしいるならば、点滅信号がともっていることを自覚してください。

もちろん、地上の目に見える教会は完全無欠ではありません。牧師も役員も信徒もみな罪赦された罪人に過ぎませんから、完全な教会をそこに求めることは難しいことです。不可能といってもいいかと率直に思います。イエス様につまずく人はいませんが不幸にして教会につまずいてしまう人は少なくありません。しかし、だからといって地域教会を否定したり地域教会に所属することを否む正当な理由とはならないことも心にとめたいと思います。

宗教改革者のルターは、未信者にとって偶像礼拝は罪だが、クリスチャンにとっての偶像礼拝の罪とは「自分勝手な礼拝をささげる」ことだと言いました。自分勝手な礼拝をささげるクリスチャン、交わりを否み孤立したクリスチャン、他の兄弟姉妹のために仕えるという愛の奉仕を分かち合えないクリスチャンは聖書に描かれている姿ではありません。

聖書は、「キリストは教会を愛し、教会のためにご自分をささげられた」(エペ5:25)と教えています。「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)とも教えています。それほどまでイエス様が愛された教会なのですから、わたしたちが教会を愛することもまたふさわしいことなのです。

イエス様が愛された教会に、目に見える地域教会にしっかりつながり結びあわされることから、私達の信仰生活は始り、そして豊かな実を神のために自分のために隣人のために結ぶことができます。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:5)

2 公同の教会の一員として祈りの翼を広げること

公同の教会に属するクリスチャンは自分の教会のことしか祈らない心の狭い人々ではありません。世界中に存在しているすべての教会、すべてのクリスチャンとの家族意識、霊的な連帯感に結ばれていますから、世界で起きている出来事を自分の喜びまた悲しみとすることができます。だからそのようなクリスチャンの祈りのつばさは大きく広がっています。大きく伸ばされた祈りの翼の中に地上の諸教会と社会の中で起きているできごとが包み込まれているのです。ただ一つの神の国の祭司とされているみずからを自覚しているからです。

私はある婦人からこのことを具体的に教えられました。その方は朝、ご主人や子供さんたちを送り出した後、朝食を取りますが、その前に執り成しの祈をささげるそうです。自分の所属する教会の牧師や信徒さん、特に病気や試練の中にある方々のために。しかし彼女の祈はそれだけに留まりません。そこから大きく伸ばされます。超教派の多くの働きのために祈り、台風や災害のニュースを見ればその地域に住む人々の救いと回復のために祈り、さらに貧しい国々の飢えている子供たちのためや、アフガンやイラクやパレスチナといった戦争や紛争が絶えない地域の人々に平和がおとずれるため、さらに北朝鮮に拉致されている人々の救いのためと彼女の祈りのつばさが全世界をおおってゆきます。用意した朝食がいつもすっかり冷めてしまうそうです。

これが、公同の教会に生きるクリスチャンの祈り、御国の祭司の祈りではないでしょうか。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテ2:5)

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(エペソ6:18)


祈り

父なる神様、聖霊の賜物を感謝します。公同の教会を信じ、地域教会にしっかり所属し、御国の祭司として世界中の兄弟姉妹のために祈りの翼を広げて祈ることへと、私たちを導いてください。

    
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