【福音宣教】  新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れなさい

新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れるのです」(マルコ2:22


今日の箇所では 断食ということが問題になっています。ユダヤ人にとって 断食は悲しみのしるし 悔い改めのしるしとして行われていました。全国民は年に一度、「贖いの日」に断食をしなければならなりませんでした。熱心な ユダヤ人は週に2 月曜日 木曜日に断食を行っていまし。ところが イエス様の弟子たちやイエス様のもとに集まってきた多くの人々は断食をしませんでした。彼らはイエス様を囲んで大喜びで食べたり飲んだりしていたので、周囲の人々は「食いしん坊の大酒飲み」(ルカ734)と、 驚き呆れていたほどでした。そこで「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのですか」と、イエス様に質問をしました。すると、イエス様は「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客が断食するだろうか。しかし 花婿が奪い去られる時が来る」と語られました。

ユダヤの国では結婚式は人生で一番幸せな喜びの日。結婚した花婿も花嫁もその友人たちを家に迎え入れて1週間近く、宴会を催し楽しく過ごしたと言われています。花婿とは、罪人と呼ばれた人々が待ち望み続けていた救い主のことです。花婿と一緒にいる友とは、キリストと共に生きる教会とそこに属する信徒たちをさしています。キリスト教会の大きな特徴は「喜び」でした。教会は喜びを分かち合い、喜びに生きる共同体とも言われています。「主にあっていつも喜んでいなさい」(ピリピ44)とあるように、喜びは教会の中心に位置づけられています。

ところが花婿が奪われる日、つまりキリストの十字架の死の時には、弟子たちも嘆き 失望し 悲しみ 断食をすることになると、すでにイエス様は十字架の死を視野に入れておられたのです。

主イエスの十字架の死は、まさに神の御子イエスがこの世界の最も低いところに降りてくださった 極みのしるしです。ベツレヘムの家畜小屋どころか、古い底なしの井戸の底にまで降りてくださって、そのどん底の中でもがき苦しみ嘆く人々を救い出してくださった。そのどん底から主イエスはよみがえり、永遠の命の光をまっ暗な闇の中に照らし出してくださったのです。失望や絶望を希望に、嘆き悲しみを喜びに変えてくださったのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ1620 22

キリスト教の中心は喜び、それは神の国がついに到来した喜び、神の国へと罪深いままありのまま招かれる喜び、神の国に生きる喜び、やがて完全に神の国が完成する時に、キリストとともに食卓を囲む喜び、聖餐式や礼拝後の愛餐会はそのことの前祝い、先取りとなっています。悲しみに打ちひしがれて教会に来ても、きっと帰る時には喜びに満たされ家路につくことができるのです。

  続いてイエス様は身近な2つの話をされました。

神の国が来たという喜びの知らせ、御国の福音は「新しい布」であり「新しいぶどう酒」であるというのです。 だから御国の福音という新しい服を着なさい。古い服や着物は脱ぎ捨てなさい。御国の福音は新しいぶどう酒だから、古い皮袋の代わりに新しい皮袋を用意しなさいというメッセージ。

1)着物の一部がすり減ったり破れたりすると、昔の人はもったいないからと布を当てて繕いました兄弟が多ければ 上から順番に古くなった服を着たものでした。古い布に晒していない新しい 布切れをあてて繕うとすると、水に濡れた時に縮んでしまい、古い布をもっと破ってしまう。そんなことをイエス様は母マリアから学んでいたのでしょう。つまり、パッチワークのような、つぎはぎだらけの古い服を脱ぎ捨てて、新しい服を着なさいという教えです。例えるならば、明治時代に、侍たちが 頭は ちょんまげ着物姿に、蝶ネクタイをして靴を履き、腰には刀の代わりにステッキ(杖)をさして歩くようなものです。汚れた古いカッターシャツの上に、新しいカッターシャツを着るような、ごちゃごちゃした、まったくもってすっきりしない状態をさしています。救いとは「古い人生を仕立て直すことではない。新しい服を着ること」と、渡辺善太牧師は記しています。キリストと共に 新しい人生を生きること。イエス様を信じたら、今までの古い服を着たまま、ごちゃまぜではいけないのです。イエス様はあなたにそんな継ぎはぎだらけの人生を与えようとはなさいません。

 2)神の国の福音という新しいぶどう酒は、発酵力が非常に強いですから、古くなって弾力性が失った皮袋の中に入れれば、その皮袋を引き裂いて破ってしまいます。

人間の頑張りや努力、一生懸命真面目な生き方をしようとする道徳心や決意。こうすべきであり、これをするべきではないという「ねばならない主義」「律法主義」に、 固くこだわり続けていれば、新しいぶどう酒の躍動的な命の力を受けることが難しくなります。キリストの復活によって、天から神の御霊がついに全ての信じるものに注がれました。御霊の命と愛がどんどん、無尽蔵に注がれてきます。福音には人々を救う力があると言いますが、それは永遠の命を与えるばかりではなく、その人自身の限界を打ち破っていく、新しい内なる力が与えられることも意味します。私には無理だ、できないと、自分にリミットをかけてしまうことがしばしばあります。 新しい神の国の生きた力のしるしとしての聖霊は、新しい命と力と愛を無尽蔵に注いでくださいます。ですから、自分で御霊の蛇口を閉めてはなりません。

あなたの中の古い布切れは何でしょうか。引きずっている古い悪しき習慣は何でしょうか。
あなたの持っている頑なで、硬直した弾力性を失った古い皮袋は何でしょうか。十字架で死なれ、よみがえられたイエス様が与えてくださる神の御霊、キリストの御霊 、これこそがあなたに約束された、神の国の
新しい命であり 力であり 愛なのです。 

3)私たちが歩む人生は、 時には砂漠を歩くような孤独を覚える厳しい道のりかもしれません。 しかし、どんな砂漠にも不思議とオアシスが存在しています。十字架で死なれ よみがえられたイエス様が私たちと共にいてくださるならば、喜びの泉へとかならず導かれます。いのちの水がきっと湧きあがってきます。あなたの渇きを癒し、魂をうるおし、再起する力があふれてくることでしょう。

イエス様の周りに集まっていた人々は収税人仲間であり、当時の宗教指導者たちから「罪人」と呼ばれ、差別され疎外されていた人たちでした。貧しい人々や孤児や寡婦、重い病気で苦悩する人々、 貧しさのために売られた遊女たち、家もなく野原で羊飼いの世話をしながら生きている羊飼いたちです。ところが、彼らのただ中に救い主が来られ、彼らを招き、彼らと共に歩んでくださり、御国へと導き入れてくださったのでした。それゆえに断食をする必要などはまったくなかったのです。キリストを信じる者の共同体は、御霊の喜びにいつも満たされていたからです。

罪深く滅びるしかない者たちが、あるがままで、 永遠の命と救いの共同体に招き入れられ、天の喜びで 包み込まれていることはなんと幸いなことでしょう。

いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい どんなことにも感謝しなさい」(1テサ5:16-18)