37 ロ−マ人の手紙  題 「麗しい伝道者の足音」 2003/9/21

         

聖書箇所 ロマ10:14−15

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(27)  


聖書とイスラエル(6)


神殿の丘

毎日新聞の読者の欄に、60歳を過ぎた友達が、若いころの写真をご主人に見せ「あのころはきれいだったでしょ」と言うと、「今のほうがずっと素敵だよ」という返事を聞いて舞い上がってしまったといううらやましい話を投稿していました。ちなみに彼女はご主人から「お前は背が丸くなってばあさんになったな」とくさされているそうです。そういいつつも夫婦のあたたかさがにじんでいる文面でした。

心に思っていることを言葉にし、行動に移すことはコミュニケーションの基本です。神さまも人間との交わりを大きな喜びとされています。

パウロは10章において、神さまの恵みと選びに対する私たちの第1の応答として、信仰の告白を取り上げました。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(10)

第2の応答として、イエスキリストの救いを人々に「宣べ伝える」宣教の働きに協力して仕えあうことを強調しています。キリストの福音を「宣べ伝える」働きを宣教あるいは伝道といいます。教会は神さまから宣教の働きをゆだねられた共同体であり、「伝道は教会の多くの働きの1つではなく、教会のすべてのはたらきの本質である」とさえ言われています。(伝道の神学 近藤勝彦)

「主の御名を呼ぶものはすべて救われる」(13)と約束されているように、神のみこころは、ユダヤ人も異邦人も区別なくすべての人々が「キリストを救い主と信じて」永遠の命に至る救いを受けることにあります。そのためには、キリストの救いの言葉をまず聞かなければなりません。聞かなければ誰も信じることができないからです。信じることがなければ誰も救われないからです。そして聞きて信じるためには語る人がそこに存在しなければならないのです。「宣べ伝える人がいなくてどうして聞くことができるでしょう」(14)

ここに伝道者の存在とその働きの重要性が教えられています。

1 宣教の聖書的根拠

1宣教の働きは主のご命令に基づいています。

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ6:15)

2宣教の働きの主導権は神にあります。

「つかわされなければどうして宣べ伝えることができるでしょう」(ロマ10:15)とパウロは言いました。神が宣教の主であられます。神が遣わされなければ宣教はできません。自分から出かけるのは宣教ではなく自己宣伝にすぎません。イエス様はお弟子たちを、「父が私を遣わされたように、わたしもあなた方を遣わします」(ヨハネ20:21)と送り出してくださいました。旧約の時代にイザヤは「だれを遣わそう、だれが我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので」「ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6:8)と召しにこたえました。

3 宣教の働きの目的は、やがて完成する神の国に住む「神の民」を世界中から招集することにあります。幼子から老人まで、ユダヤ人も異邦人もあらゆる民族から神の御国の民がキリストの下に呼び集められ、一つの「神の民」となります。
「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」
 (ルカ13:29)

4 宣教の働きは終末的な神の国の完成のためには絶対不可欠な働きとされています。

「この福音は全世界に宣べつたえられてすべての国民に証しされ、それから終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)

5 宣教の働きは、聖霊による神の御業です。神の御霊が働かれなければ何も起こりません。

「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません」(1コリ12:3)

「わたしのことばとわたしの宣教とは・・御霊と力のあらわれでした」(1コリ2:4)

 宣教の働きが聖霊のお働きとすれば、教会はさまざまな催しを企画したり趣向をこらしたりするよりは、「祈り」の中で神のお働きを「待ち望む」姿勢がより強く求められると思います。祈りと聖霊のお働きは一つだからです。祈があるところに御聖霊も力強く働かれます。「祈る教会」「祈る信徒」を聖霊は祝してくださいます。

2 宣教の共同体としての教会

神学校で泉田昭師が、「わたしは3つのW」で教会を形成してきましたと証してくださいました。「WORD神のことば」「WORSHIP礼拝」「WORK奉仕」。とくにあらゆる奉仕の中で最優先されるべきは「伝道」の働きですと言われました。わたしはこの言葉を大切にして今日までご奉仕させていただきました。開拓当初は伝道に力を入れ、メンバーが増えれば礼拝に力点を置き、いつもバランスを大切にしてきました。

みなさん、教会とは「礼拝する神の民の共同体」であり、そして「宣教する神の民の共同体」であるという教会観をしっかりと持たせていただきましょう。礼拝と宣教は教会の両輪です。礼拝にいのちがあふれ、宣教に力が満ちてこそ「生きた」教会といえます。

礼拝は神に向かって神の民の愛と奉仕がささげられ、宣教はこの世の人々、隣人に向かって愛と奉仕がささげられことにほかなりません。宣教は神の民を呼び集め、呼び集められた神の民は神の恵みと栄光を礼拝するのです。

3 宣教者のために祈る教会

「よいことの知らせをつたえる人々の足はなんとりっぱでしょう」(15) 

キリストの福音を伝える働きとその働き人が賞賛されています。宣教者たちは、一体どんな立派な足をしているのでしょう。聖書では、足は生活、人生、生涯をあらわすことばです。神に召され、神の召しにお答えして献身し、神の言葉に仕える牧師や伝道者や宣教師といった働き人の存在が神の喜びとされていることを意味しています。

1 伝道者への敬意を払うこと

ですから私たちは伝道者に心からの敬意を払わなければなりません。

「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」(1テサ5:12−13)

伝道者の生活と家族のためにいつも配慮し祈ることを聖書は教えています。

「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。」(1テモテ5:17−18)

2 伝道者を育てること

今日、多くの神学校は入学する学生が少なくなって経営が困難になっています。フルタイムの牧師になって神さまに仕えようとする若者が少なくなっています。今日本には約8000人の牧師、2000人の宣教師、300名の日本人宣教師がいます。約120人のクリスチャンに1人の牧師がいます。ところが2017年までに現職牧師約5000人が高齢のために引退すると予測されています。そのためには毎年250名の新しい若い牧師が卒業し任命されなければ現状が維持できません。江戸時代末期1859年にプロテスタント宣教がはじまって約150年経ち、毎年30万人がミッションスクールを卒業生しているにもかかわらず、日本の宣教は目覚しい進展を遂げていません。全人口のわずか1%にすぎません。厳しい状況を解決するためには、「伝道者」を育てるしかありません。

現在神学校で学んでいる神学生を祈りと献金をもって支援し育てることは大事です。今年、神学校で学んでいる連合の学生のリストを用意しましたので祈りましょう。

開拓をはじめたばかりの小さな教会の若い牧師が働きをまっとうできるように祈り励ますことも必要かもしれません。経済的な困難からストレスを受け、牧師の奥さんが倒れてしまい、牧師職を続けられなくなるケースも多々あるからです。

日本に来ている2000名の宣教師のためにも祈りましょう。連合がフィリピンに派遣している山見宣教師、田原宣教師のためにも祈りましょう。

堺市の白鷺駅の近くで開拓伝道を始めた牟先生ご夫妻のためにも祈りささげましょう。

伝道者のために祈り、ささげ、育てる働きはそのまま、かけがえのない「宣教の御業」にともに預かることに他なりません。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:36−37)

3 伝道者として用いられること

聖書はフルタイムの献身者を必ずしも牧師、宣教師、伝道者と呼んでいません。使徒の働きの時代には多くの伝道者は「手に職」をもっていました。そして牧師や宣教師や伝道者を職務というよりは賜物のよる働きと理解していました。つまり、すべての信徒が「主の証し人」であり、「全信徒伝道者」でさえあったのです。だからこそ爆発的な宣教の拡大がロマ帝国の各地に起こったのでした。教会の発展と共にフルタイムの働き人が必要となりいわゆる教職制度ができあがりましたが、キリスト教の歴史をみれば、いつの時代にも常にすばらしい信徒伝道者や牧師が存在していたことは明らかです。

説教を語る牧師が一人いれば音響設備がよければ2000人に語ることができます。しかし一人一人の魂をキリストのもとに導きフォローする賜物をもった牧師や伝道者は一人では到底たりません。多ければおおいほど教会の働きは豊かなものとなります。21世紀の日本の教会は「信徒が主役」となる時代、「信徒の賜物が輝く」時代だといわれています。従来のような牧師を中心としたピラミッド型の教会ではなく、個人伝道や聖書の学び、カウンセリング、小グループ活動など信徒の賜物とネットワークが豊かにいかされたヒューマンネット型の教会が新しい時代のモデルとなることでしょう。そのためには、教会において「伝道する信徒」が育っているかどうかが大きく問われています。

教会は伝道する共同体であることを理解し、伝道の重要性を理解し、伝道のために喜んで祈りささげる信徒であることが求められています。礼拝に新しい人をお誘いし、新しい人がそこに居場所を見出せるあたたかい交わりを保つことができれば、それは「伝道する信徒」の群れなのです。

くりかえしますが、「伝道」は教会の1つの働きではなく、「教会のすべての働きの本質です」。教会は、呼び集められた神の民の「礼拝と宣教の共同体」であることを今朝、心に覚えましょう。

伝道者の足が麗しいとされるなら、うるわしい教会の姿とは、「信徒が伝道する」教会、隣人への愛にみちた教会といえるのではないでしょうか。  

祈り

                                      

     

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