19 ロ−マ人の手紙  題 「キリストにあって生きる」 2003/4/5
聖書箇所 ロマ6:6-11


日曜学校に通っている子どもがある時に悩んで先生に、「僕の中に良い天使と悪い天使がいて、悪い天使がいつも勝ってしまうのでいけないことをしてしまうの」と言ったそうです。

どうしたらもっと強い人間になることができるだろうかと私たちは自分の悪習慣や罪の誘惑への弱さや甘さに悩むときがあります。自分だけの問題ではなく周囲の人々を巻き込んだり迷惑をかけてしまうようなときはなおさらです。さんざんお説教され非難されてもなかなか治るものではありません。「性根を入れなおせ」と言われてもカセットテープを入れ替えるようなわけにはいかない。「なんべん謝ったらすむんだ」と言われても、本人にもわからない、そのたびに「もうしません」と謝るしかない。常習犯の場合には背景に複雑な家庭環境や幼児時代に受けた心の傷やゆがみや恐怖といった現体験があったりして、なかなか難しい問題です。

そこで厳罰を与えて懲らしめ猛反省を促す懲罰的方法や、心理的アプロ−チによって心の健全な回復を願う治療的方法や、宗教による戒律や教え、道徳教育の力で意識を高める教育的方法などがとられますが、かならずしも効果がでるわけでもありません。

そんな私たちに聖書は、イエスキリストを信じ、キリストのいのちにあずかることによって「新しい歩みをする」(6:4)ことができると教えています。良い教えを聞き、学んだり、守ったりすることとは異なり「キリストのいのちに触れる」ことによって、新しい「歩み」つまり生活が始まると教えています。イチロ選手は少年野球に熱中していた頃、中日の木俣選手に指導を受け、「このまま努力したらドラゴンズの選手になれるよ」と言われたそうですが、その時の感動がプロ野球選手になる原点だったそうです。「いのちにふれる」というのはそのような経験と言えます。キリストのいのちに触れるとは次のことを意味します。

第1に「キリストに接ぎ合わされる」経験(5)

キリストにつくとは信仰という接着剤でイエスキリストにくっつけられてしまうことです。ひっついたりはなれたりではなく、はがすことができないほどキリストと一体になっていることを指します。昔葬儀屋さんがお葬式の祭壇用にキリストの像がついた十字架を飾りました。これはカトリック教会が用いる十字架ですから交換してくださいと言うと、十字架からキリスト像をさっとはずしてしまわれました。両派で兼用できるとりはずし自由のキリスト像だったのです。しかし私たちの信仰はそのようなものであってはなりません。イエス様から「とりはずし自由な」私たちであってはなりません。マジックテ−プでなく溶接されたようなものです。なんだかんだと言っても「やっぱりイエス様抜きでは生きてゆけない」、クリスチャンはイエス様へのそのようなとらわれのなかに生きているのです。しかも、「接ぎ合わされる」と受動態で表現されているように、向こうから、イエス様からとらえられて結ばれているのです。神様が私を見出して捕らえてくださったのです。

「キリストイエスがわたしをとらえてくださった」(ピリピ3:13)

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ15:10)

私たち人間は生まれたままの状態では、最初の人間アダムが犯した罪の影響を受け、アダムと同じような性質を受け継いで生まれてきます。その証拠に人から教えられなくてもいつしか嘘をついたりごまかしたりします。年と共に自分を中心にしかものごとを考えられないエゴイストになって行きます。神様の存在も無視したり否定したりして自分たちがやりたいように生きてゆこうと考えるようになります。こうして一人の人アダムの辿った道と運命を同じように歩むことになります。アダムを象徴するこの黒い本の中にしおりがはさまれたようなものです。本としおりは共同体となります。アダムと同じ運命共同体となれば、向かい先は、死と永遠の滅びの世界です。

一方、神から救い主として遣わされた神の御子イエスキリストは、罪の無い33年の聖い生涯を送られたにもかかわらず、十字架に釘付けられ処刑されました。遺体は弟子たちによって墓に葬られましたが、3日後にキリストはよみがえられました。ただ一人、死の力を打ち破り永遠の救い主となられたのです。十字架で死なれ3日後に復活されたイエスキリストを信じる時に、信じる者は「キリストと結び合わされ」ます。この白い本の中にしおりが移されるようなものです。そして、キリストと同じように、古いアダムとして死んで葬られ新しい人として復活させられるのです。キリストと同じいのちを受け継ぐ運命共同体とされ、その向かい先は永遠の神の御国となります

第2は「キリストとともに葬られ」(4)、「キリストとともに死んだ」との経験(8)

さてキリストは、十字架で死なれ葬られましたが3日後に死から甦られました。キリストと結び合わされた人々もまたキリストにあって葬られ、そしてよみがえらされるのです。葬られるとはどのような経験をさすのでしょうか。聖書は私たち人間は生きている限り「罪の奴隷」であると教えます。生きていて体が動く限り、生まれながらの人間は多かれ少なかれ、程度の差はあれ、みんな「罪の奴隷」(6)なのです。お金やお酒の奴隷、女やギャンブルの奴隷、名誉欲や出世欲の奴隷、怒りやねたみの奴隷、嘘や盗みの奴隷、愛欲の奴隷などさまざまです。奴隷ですから罪という主人に対して無力な存在であり支配されて自由を奪われてしまっています。ところがもしその人が死んでしまえば、罪はその人をもう支配することができません。死んでしまった人々が怒って人を傷つけたり殺したり、情欲に負けてさらに罪を犯すということはありえません。嘘つきも棺おけの中では黙っています。ならず者も骨壺の中ではおとなしくしています。酒飲みもお墓の下ではもうあばれません。「死んでしまった者は罪から解放されているのです。」(7)と聖書は教えます。つまり、キリストとともに葬られたならば、罪から解放され、奴隷からも解放されるのです。

11節に「そのように思いなさい」と聖書は命じています。まずその事実を知ることからはじまります。それは聖書の真理を信じることから始まります。1834年に奴隷解放宣言が出されました。この事実を知った人々は自由を経験しました。しらない人々はまだ奴隷生活をすごしたのです。甦られたキリストは罪と死から人々を解放する力をもっておられます。重いジャンボ機が空を飛ぶのは、引力よりも強いエンジンの力を持っているからです。よみがえられたキリストのいのちにまさる力は世に存在しません。キリストにあって「葬られた」のなら、キリストにあって新しく「生きる」ことができます。キリストがあなたのいのちとなり力となってくださるからです。

自分の努力やがんばりだけでは力の不足を実感するお互いではないでしょうか。よみがえられたキリストのいのちに結ばれてゆく中に、新しい歩みが存在します。秘訣はここにあります。

                                               

                     祈り 

一人の人、イエスキリストの復活によって、いのちがもたらされました。私たちも一人も、キリストのいのちに「生かされる」ものと導いてください。 

     

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