14 ロ−マ人の手紙  題 「アブラハムの信仰 (1)」 2003/2/24

「 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。
しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。
それが彼の義と見なされた。」とあります。」(ロマ4:2-3)


前回、私たちは新約聖書の中心主題、「信仰義認」の教えを学びました。たとえ行いが無くても道徳的に不完全であっても、父なる神様は神の御子イエスキリストの十字架の身代わりの死を信じる者を赦し、罪のない正しい者とみなしてくださるというのが「信仰義認」の教えです。一方、この信仰義認に対立するのが「行為義認」と呼ばれる教えです。行為義認とは、神様から正しいと認められ救われるためには、それにふさわしい善い行い、善い道徳心、あるいは定められた宗教的な戒律を守ることが絶対不可欠だと強調する教えです。

ユダヤ教徒たちにとって、モ−セが神から啓示された戒律を重視すること、中でも割礼を受ける事は絶対必要条件でした。生粋のユダヤ人であり、律法の申し子であったようなパウロにとって、信仰義認を受け入れることは難しいことでありずいぶん悩んだことと思われます。

そんなパウロはモ−セよりも先の時代に神とともに生きた偉大な指導者アブラハムの中に、「信仰に生き信仰によって義とされた」姿をみいだすことによって、ついに確信に至ったのでした。アブラハムは割礼を受ける前に、「信仰によって義」とされた人物だったからです。「アブラハムは神を信じた。そしてそれが彼の義と認められた」むしろ割礼は信仰によるしるしなのだとパウロは理解しました。

1 アブラハムの信仰・まだ見ぬ事実を信じる信仰

アブラハムはどのような状況の中で、どのように神を信じたのでしょうか。

75歳の時にアブラハムは神様の導きに従い、カナンの地に移り住みました。しかし、原住民との間のいざこざは絶えず闘いの日々でした。妻には子どもが生まれず、忠実なしもべエリエゼルに家督を受け継がせようとさえ考えていました。アブラハムを訪れた神様は彼を天幕の外につれだし、満天の星を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる」(創15:5−6)と約束されました。そのときアブラハムは神様の約束を信じたのでした。それはまだ見ていない事柄を信じることでした。常識的にはほとんど受け入れがたいことを信じることでした。なにしろ80数歳になっても子どもは一人も生まれませんでした。さすがに妻のサライも気落ちして、女奴隷ハガイに子を生ませようとさえしたほど、現実は厳しいものがありました。「そんなムリなこと」と誰もが現実を見れば口にしたくなる状況にありました。

けれどもそんな状況の只中でアブラハムは「神ご自身」を信じたのです。

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」(8)とアブラハムの信仰を明らかにしています。これがアブラハムの信仰の原点でした。それは厳しい状況を見るのでなく状況の中に働かれる神ご自身を見る信仰でした。困難な状況に支配されるのではなく状況を御支配される恵に満ちた神を信じる信仰です。

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)

あきらめや失望は信仰の最大の敵です。信仰からいのちや力を奪うものは失望です。信仰と希望はつねに友人です。そして良いパ−トナ−です。ですからパウロはいつまでも続くものとして「信仰と希望」を結び合わせています。

生まれながらの私たちはいつも失望したり、すぐにあきらめたり、嫌になって放り出してしまいやすいものです。そんな私たちに神様はアブラハムの信仰を与えてくださるのです。

あなたが現実には厳しい中に置かれながらも、尚、神様に期待し願い求めておられることがありますか。そうであるならばアブラハムの信仰に立たせていただきましょう。目に見えるものにではなく見えないものを信じる信仰に。

第2は不信仰な者を義と認めてくださる方を信じる信仰

アブラハムの信仰の第2の特徴は、神が不信仰な者をも義と認めてくださると信じる信仰でした。認める(ロギゾマイ)とは商業用語で「計算する・勘定してくださる」という意味です。計算があわなくても「そのようにみなしてくださった」という意味になります。計算が合わなくても、勘定が不足していても、よしとしてくださるのは、「神の恵み」にほかなりません。働きが無くても、行いが伴わなくても、不十分でも不完全でも不足していても、罪人を義と認めようとお決めになられた「恵の神」「慈愛の神」がおられるのですから、そのお方を信じることが信仰だというのです。常識的にはそんなことをご決心される「気のいい神様」などいないはずですが、事実おられたのです。このことの証人としてパウロはさらに、旧約聖書の偉大な人物であり、姦淫と殺人の罪を犯しながら赦しを受けたダビデを引き合いに出します。二人の証人の証言は真実だからです。ダビデもまた「罪をおおわれ、赦され、神が罪をお認めにならない者は幸いである」(7)ことを経験した一人でしたから、ダビデのことばは説得力を持っていました。

罪人が罪を悔い改めるならば、神様は無条件の赦しを与えて下さると「慈愛の神」「赦しの神」を信じるその信仰がアブラハムの信仰であったとパウロは発見したのです。信仰のル−ツをパウロははるかアブラハムにまでさかのぼって見出すことができたのです。

東京神学大学の大木英夫氏は著書ロ−マ人の手紙の中で「自分の不信仰をも信じないで神を信じる、ただ神に従うのです。」(p107)と語っています。神を信じる信仰とは、つまり自分の不信仰を信じない「信仰」と同じであり、自分の不信仰をもう信じない信仰を神は義と認められるのですと解説されています。

自分の不信仰を信じてあれもこれもと計算し始めると、償いや行いによって義とされようとの宗教的律法的思いが生じてしまいます。自責感に対して人間は本能的にバランスをとろうとするからです。

このアブラハムの信仰に立つならば、自分の不信仰ぶりをもう「計算する」必要はありません。なぜならば、どんなに罪の足し算を熱心にしてみても、その総合計額に対して天の父なる神様は、「0」をかけて下さるからです。父なる神様がご用意してくださったキリストの十字架の血による赦しは、すべての罪をきよめ「0」とする力を持っているのです。聖書を通して十字架の赦しの力が宣言されています。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」(1ヨハネ1:7)

「高価な真珠の贈り物」という子供向けの紙芝居がありました。真珠採りをしていた一人息子が命がけで大きな黒真珠を採ってきました。それは死んでしまった息子のいのちの形見ともいえる真珠でした。ですからこの真珠に値段をつけることはできません。息子の父は贈り物としてその真珠を親友の宣教師にプレゼントしようとしました。宣教師は「こんな高価な真珠をただでもらうことはできない。お金を出してあなたから買いましょう」と申し出ました。すると父親が「どんなに高い値段をつけてもそれは売ることはできません。私の愛の気持としてあなたにプレゼントしたいのだ」と言いました。そのことばを聞いて宣教師は、御子イエスキリストの十字架の身代わりの死の意味と救いを無代価で与えようとされる神様の愛の御心をねんごろに教え、救いに導いたそうです。クリスチャンになりたてのころにこの話を聞いて私は、たとえ行いが無くても罪人を義としてくださる神の恵みの深さを知ることができました。

癒しと赦しと救いは、人間の業によって報酬としてもたらされるものではなく、受け取るに値しない者が神様からの贈り物としてもたらされるものなのです。そのような「恵みの贈り主である神」を信じる信仰が、アブラハムの信仰の原点なのです。

神様はアブラハムを連れ出し満天の夜空に輝く無数の星を見上げさせました。神の恵みは無制限の広がりをもち誰も数えきることなどできないのです。今日、父なる神様は私たちを、カルバリの丘に立てられた御子イエス様の十字架を見上げさせようとしておられます。十字架には数えきることのできない「無限の恵み」が用意されているからです。イエス様の十字架を仰ぐ私たちの信仰は、夜空の星を仰いで神を信じたアブラハムの信仰と同じ信仰なのです。

「信仰の創始者であり、完成であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)


                     祈り

見えないものの価値を知り、見えないものを信じた信仰に私たちも連ならせてください。行いのない者さえも、御子の十字架を信じる信仰のゆえに義としてくださる神様の恵みを心から感謝し讃美します。

     

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