聖霊に満たされた人々のシリ−ズ3 (2006年8月20日) 
初代教会の宣教の歴史
 
「この名のほかに救いはありません」(使徒4:1-12)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒4:12)


大阪の守口市に「山岡金属工業」という、家庭用たこやき器の販売シェア率が90%を超える製造会社があります。敷地に3億円をかけて「たこやきミュ−ジアム」を完成させ、たこやきに関する全ての資料を展示しているそうです。山岡社長は「大阪の名物・たこやきを日本だけでなく世界中の人々に知って欲しい。こんなおいしい食べ物は世界中どこにもない」との大きな夢を持ち、自分の工場を「夢工房」と命名しているほどです。「現実7割夢3割」をモット―にして堅実な会社経営を心がけておられます。私はこの話を知ってたいへん感動しました。

初代教会のクリスチャンは命令や義務で伝道したわけではありません。ユダや人にとっても異邦人にとっても唯一の救い主であるイエスキリストの名を知ってほしい、救いの恵みに預かりキリストとともに生きる幸いな人生を歩んで欲しい、その「喜び」から聖霊に押し出されて宣教をしたのでした。彼らにとって宣教はわくわくするような大きな「夢」の達成でもあったのです。いのちをかけても惜しいとは思わない、それほど大きな夢であり希望であり、力だったのです。もし私たちが「せねばならない」式の伝道にしばられ挫折感を覚えているならば、クリスチャンの夢の実現としての宣教という視点を回復すうることは意義が大きいと思います。

ペテロとヨハネは生まれながらに足の不自由な男性をイエスの名によって癒すというしるしをおこない、群衆にナザレのイエスの十字架と復活の出来事を説き明かし、人々を悔い改めに導きました。たちまちこの様子はユダヤ教の宗教的・政治的指導者たちであるサドカイ派の重鎮たちの耳にも届けられました。神殿警備兵が急行しペテロとヨハネは逮捕され留置されました。さらに翌日にはユダヤ教の最高議会であるサンヒドリン議会が招集され、大祭司一族、律法学者、パリサイ派、サドカイ派の並みいる面々のただ中に立たされ、尋問を受けることとなりました。
今日で言えば、私が、国会の衆議院特別委員会に呼ばれ証人喚問を受けるようなものかもしれません。恐れや緊張が走ったことでしょう。しかし聖霊に満たされたペテロとヨハネはかつてのような臆病な若者ではありませんでした。

1       聖霊に満たされて大胆に主の名を証しする

彼らは大胆にキリストの名を語り、十字架と復活の出来事を証しました。ユダヤ教指導者たちによって十字架刑に処せられたイエスは3日後によみがえり、天に昇り神の栄光の座に就かれた。いわば「捨てられた」石であったイエスキリストを神は、死者の中からよみがえらせ神の右の座に引き上げ、最も栄光に満ちた「かしら石」とされたのだと、詩篇11822を引用して大胆に証ししたのです。かしら石というのは「建物の完成を意味する重要な仕上げの石」を意味します。ペテロの証しを聞いた議員たちは、彼らが専門知識もないガリラヤ湖出身のただの漁師であることを知って驚くばかりで、返す言葉がありませんでした。

彼らの力の秘密は「聖霊により頼み、満たされる」ところにありました。聖霊は真理の御霊であり、キリストを証しする霊ですから、聖霊により頼むならば、大胆な証へと導くことができるのです。

ヨハネ 15: 26「 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、  その御霊がわたしについてあかしします。」
12: 12「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けま した。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るため  です。」

私たちは宣教の力、証の力を聖霊の御手に委ねるところから回復しなければならないと思います。
あるキャンプで証しを依頼された婦人が一生懸命、原稿を暗記していました。人前で話すことが苦手であがってしまいしどろもどろになってしまいがちだったからです。その姿を見ていた牧師は彼女に近づくと原稿を取り上げ破ってしまいました。驚く彼女に牧師は「人間の力ではなく、聖霊により頼みなさい」とにっこり語りかけました。聖霊に委ねてとつとつと語り出した彼女でしたが、その証しは聴く人々の心をうち、キリストの恵みがあがめられたそうです。

2 イエス以外の名に救いはない

私たち日本人は宗教的「重層階層」という精神構造を持っています。いろんな宗教や神々が混在し共存し、お正月は神社、お葬式はお寺、夏祭りはお地蔵様、クリスマスと結婚式は教会でと器用に使い分けます。ですから、「キリスト教以外に救いはない」などと聞くと「そういう狭い了見だからキリスト教は日本で伸びないのだ」「独断的・排他的・エリ−ト意識の固まり」などと強く反発します。昔、教会学校に集っていた一人の未信者家庭の生徒が「人間はいつも喧嘩しているので、せめて神様たちはみんな仲良く一緒にくらさなくちゃ」と言いました。こどものころから日本人はこうして宗教的共存・多神教世界観に育まれていくのだと思いました。

日本人には違和感があっても「唯一のまことの神への信仰、唯一の救い主への信仰、唯一の救いの道への信仰がキリスト教を支えています。主は一つ、救いは一つ、信仰は一つという信仰にキリスト教は立脚しています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と、イエス様自身がはっきりと語っておられます。

「誰も私によらなければ父のもとへ行けない」この唯一の救いは独断ではなく、唯一の「神の恵み」の絶対性を意味しています。

聖書では「救い」ということばは多様に使われています。肉体的な癒し、精神的な不安や恐怖からの回復といった精神的な癒し、現実的な様ざまな困難や試練からの救出という意味でも用いられています。さらに「罪と滅びからの救い」という霊的な救済を意味しています。

私たちクリスチャンがしっかりと理解しておかなければならない「救い」に関する客観性というテ−マがあります。ペテロは「邪悪な時代から救われなさい」(使徒2:40)と宣教しましたが、ペテロは「救い」を個人的主観的出来事としてではなく、「時代」ということばで象徴されるように歴史的客観的出来事としてとらえています。

パウロはロマ書の中で、アダムに代表される生まれながらの古い「罪と死の時代」から、キリストに代表される新しい「いのちの時代」へ移されることを指しています。ローマ 5: 12  「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。

アダムに属する古い世代の人々と、第2のアダムと呼ばれるキリストに属する人々がいます。キリストはアダムの失敗を十字架において完全に償い、かつ律法の要求を完全に成就され第2のアダムとなりました。ですから、生まれながらにして古いアダムに属して生き続けるのか、新しいアダムであるキリストに属して生きるのかすべての人々ががとわれているのです。古いアダムダムとして古い時代に属して生きるのか、新しいアダムであるキリストに属して新しい時代に生きることを望むのか客観的な救いが問われています。

私は、バプテスマ式の度に、バプテスマの「式文」を厳かな思いで朗読します。バプテスマは、単なる儀式ではありません。信仰告白者がキリストとともに十字架につけられ古い自分に死んで葬られ、キリストが3日目に復活されたようにキリストとともに新しいいのちによみがえり、キリストによって始まった新しい時代に生きるという、聖書が教える「新生の恵み」を生き生きとリアリティをともなって自己体験していただくことを心から願っているからです。

救いを主観面・個人面・倫理面・感情面にだけからとらえ理解していると、自分の内的な未成熟さ、罪深さ、生活面での失敗、感情的な落ち込みなどを経験すると自分の「救い」そのものまでもぐらぐら揺れてしまいます。しかし、多少の揺れや落ち込みがあっても、客観的な救いを聖書的に正しく理解しているならば、まず「新生の恵み」
をキリストに属する新しい存在という絶対的な基盤の上に据えることができるのです。

キリストの救いの恵みを個人主義化、精神論化してはならないと思います。キリストの救いはもっと客観的で普遍的で揺れることのない歴史性をもっているからです。繰り返しますが、あなたが生まれながらの古いアダムに属して、死と滅びの時代になおも留まって生きてゆくか、キリストの名によってバプテスマを受けキリストに属して、いのちと聖霊の支配にとらえられて生きてゆくか、問われているのです。

このような「救い」をもたらすことができる救い主は、イエスキリストただお一人なのです。キリスト以外には天下の誰にも、私たちを救う名は、与えられていないのです。


    

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