聖霊に満たされた人々のシリ−ズ2 (2006年8月13日) 
初代教会の宣教の歴史
 
「キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:1-10)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、
歩きなさい。」」(使徒3:6)



ペテロとヨハネは午後3時の祈りのためにエルサレムの神殿に上って礼拝を捧げようとしました。神殿に入る城門(ここまでは異邦人も入れるがこの先は聖域でありユダヤ人しか入れません)の脇で生まれながらに脚が不自由な40歳(4:22)ごろの男性が運ばれてきて物乞いをしながら座っていました。ユダヤの国では社会的な弱者に対する扶助の教えがあり、行政ではなく一般市民が兄弟愛・隣人愛の表れとして施しを行っていました。彼をサポートする周囲の人々によって毎日そこに「運ばれてきて」座り、彼なりの生活の糧を得ていた。

著者のルカは医者でしたから、病者、障害者へのあたたかいまなざしと彼らの現状を冷静に見抜く客観的な視点をもっていました。兄弟愛という絆で結ばれているボランティア扶助社会ユダヤといえども、やはり社会的弱者が厳しい状況におかれていることを、運ばれて「置かれていた」という、「人」ではなく「物品や荷物を置く」という意味をあらわす言葉を使用して伝えようとしています。

ペテロはこの男性に近づき「金銀は私たちにはないが私にあるものをあげよう」と語りかけ、彼が関心を向けたとき、「キリストの名によって歩きなさい」と命じました。

ペテロのことばに伝道の3原則を見いだすことができます。

ペテロは「私を見なさい」といいました。クリスチャンがイエスを証する場合こういえるでしょうか?「私じゃなくてイエス様を見てね!」と言いがちですが、それは間違っています。ごまかさないで「私をみなさい」、イエス様にであってこんな私に変えられましたとイエス様の恵みを証することが求められています。また、「ありのままの私を見て」と自分をごまかさない、取り繕わない、いいかっこしないことが大事です。パ−フェクトなクリスチャンなどは存在しません。ですからひとりの生身の人間として弱さを素直に語りましょう。そして「こんな私だけれどイエス様の十字架の血で赦され、受け入れられ、心の平安に包まれているのよ」と、イエス様の十字架をあがめる者でありたいですね。 

あるクリスチャンは声を大にして「金銀は私にはない」と自信をもって言えるかもしれません。ついでに、神様に向かっても「金銀はない」と献金の姿勢が後退してしまうことがないでしょうか。与えられた恵みに感謝してから喜びを持ってささげましょう。

「イエスの名によって歩きなさい」とペテロは命じました。 イエス様の名によって「歩くことができるでしょう」「歩くことができるかも知れません」などのあいまいな表現をしませんでした。ここにはイエス様に対する絶大な信頼があります。イエス様はたとえ40年間の困難、失望、無力感の中に置かれるような厳しい状況があっても必ずそこから立ち上がらせてくださることができる救い主なのです。この信頼こそが、イエスキリストの救いを伝道する力なのです。

「イエスの名によって歩く」とは、「キリストにあってあなたは真に生きることができる」という意味です。キリストを信じる信仰によって主体的に生きること、私が私として生きること、うまく生きるか下手に生きるかは別として、本当に私が生きていて良かったと言える生き方を生きるという意味を持っています。生きているということは、ただ単に「息をしている・心臓も肺も胃も動いている」ということを意味するものではありません。魂が神の前で生きているでしょうか。

京都北部綾部にある「グンゼ株式会社」の初代社長であった波多野鶴吉さんは、資産家の息子として生まれました。若い日、京都に学びに出た者の放蕩三昧の自堕落な生活を繰り返し、資産を食いつぶしてしまいました。心身ぼろぼろの追いつめられた状況で自殺を考えました。死ぬ前に村にある教会を一度訪ねてみようとやってきました。自分の罪深い生活の日々を告白し懺悔し「こんな私でも救われるでしょうか」と牧師に尋ねました。牧師はやさしいまなざしで彼を見つめ「キリストを信じるなら救われます!」とはっきりと語りました。波多野さんはこのとき、イエス様に丸ごとすべてをかけてみようと、イエスの名に信頼したのです。彼はどん底から立ち上がり、キリストを中心とする新しい人生を始めることができたのです。いいえ、イエス様が波多野さんを新しい人生に招き入れてくださったのです。

「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)

使徒たちは「彼の手を取って起こしてやった」とルカは記しています。 使徒たちの「手」に何か特別な奇跡を起こす力があったわけではありません。救いはキリストのなさる神のみわざです。そしてクリスチャンはその恵みが注がれるために「小さな愛の奉仕をもって仕える」ことへ招かれています。

40年間の彼の苦しみを理解、共感できているからこそ、彼の心のふれる愛のコンタクトが自然に生まれたのです。小さな奉仕をもって援助する、私たちができることはこれぐらいのことであり、それで十分なのです。キリストが軌跡をなされるのですから。その人自身の祈りと願いがその人自身に神にの恵みとしての奇跡をもたらすのですから。「求めよさらば与えられん」、信じるならば神の栄光を見る」と聖書は約束しています。

ここに信仰の基本的な構図を見ることができると思います。

神のわざをなされるキリスト、奇跡、恵み、助け、援助、内なる精神的な力、協力者、思わぬ環境変化などをもたらすその人の祈りや願い、そのために小さな手伝いをするペテロやクリスチャンたち。この信仰のトライアングル、3者関係を良く理解しておきたいものです。

さて、癒しを受けたこの男性ですが、その後喜び勇んで家族のもとに大急ぎで帰ったわけではありません。驚いたことに彼はペテロたちといっしょに小躍りしながら神をあがめるために神殿に入って行ったのです。受けた恵みを神に感謝するためでした。40年間の苦悩から解放してくださった恵みを神に感謝することを彼は決して忘れませんでした。

自分で歩けるようになったからといって、彼が楽な人生を歩みだしたということにはなりません。他者に依存して生きることはたしかにしんどいことですが、自分で立ち上がって自己責任に基づいて行動することもまた楽なことではありません。ある方が「おなかをすかした人々に獲った魚を与えることよりも、魚の獲り方を教え自分で空腹を満たすことが大事です」と自律的援助方法について語っています。

ですから、信仰をまず第1に神に感謝することを私たちは人生の根底に据えなければなりません。現実的な困難の大きさ深刻さよりも、神様を抜きにした人生そのものがより大きく深刻な問題であることを覚えましょう。

「キリストの名によって歩きなさい」 教会は過去2000年間この唯一の良き知らせを世界中の人々に語り伝えてきました。キリストにあって神とともに生きる、そんな人生をあなたも歩まれませんか。

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御口から
おしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは
再び立ち直る。あなたは自分の天幕から不正を遠ざけ、宝をちりの上に置き、オフィルの金を
川の小石の間に置け。そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとな
る。」(ヨブ22:21−25)


    

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