2014年度 主日礼拝
  2014年8月31日



使徒2816-38 あまねく人々に福音を伝えよう

囚人としてロ−マに護送されたパウロは、ロ−マ皇帝による正式裁判を待ちながら、借家で約2年間過ごしました。パウロはその借家に住みながら、訪ねてくるすべての人々を迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、宣教することができました。通常、ローマの裁判では、訴える側(告訴人)は1年半以内に法廷に出廷しなければならないと定められていたそうです。ですから、パウロが約2年間、借家に滞在したということは、訴えることをユダヤ人たちが断念し、パウロの不起訴、無罪が確定したことを意味すると言われています。ですから、パウロは釈放されたのち、さらにローマを中心にその後、宣教活動に励んだと推測できます。ローマにおけるパウロの宣教の特徴を今回、学びたいと思います。キーワ−ドは、「訪ねてくる者を・神の国・主イエスキリスト・大胆に」の4つです。

1.    訪ねてくる人たちを迎えて

囚人のパウロに、自由に行動することは許されません。ですから、パウロは訪ねてくる人々を待つしかありませんでした。ところが、パウロは、ただ「待つ」だけでなく、「迎えた」のです。粗末で貧しい囚人の借り家に、人々を「歓待する」ようなお金も食事も調度品もありません。しかし、パウロには目に見えない豊かな富がありました。ペテロが、かつてエルサレムの神殿のうつくしの門で物乞いする盲人に「金銀はない。しかし、私にあるものをあげよう。イエスキリストの名よって歩きなさい」(使徒36)と命じたことを思い出します。パウロは彼が持っているもっとも霊的な価値ある富、つまり「福音」を、訪ねてくる人々をあたたかく迎え入れ、惜しみなく分け与えることができたのでした。

積極的に「出ていく」伝道もありますが、「訪ねてくる人を迎える」伝道もあると思います。

そのためには、相手が教会を訪ねてみよう、クリスチャンを訪ねてみよう、礼拝への敷居はまだ高いけれど、平日の集会や楽しい催しならば訪ねてみようと思うような、受け入れ場所をいくつも私たちが用意し、笑顔であたたかく迎え入れることが大切になってきます。「迎える場所」を教会の内にも外にも豊かに備えたいものですね。


2.    パウロは「神の国」を宣べ伝えました。

当時はローマ皇帝が巨大な大ロ−マ帝国を支配していた時代でした。一方、パウロはこの世に属する国ではなく、天に属する永遠の国、王でも皇帝でもなく、神が統べおさめる神の国を大胆に宣教しました。神の国は決して目に見えませんが、「永遠に存続する国」であり、それゆえユダヤ人にも異邦人にとっても「大いなる希望の国」でした。神の国を伝えることは、いいかえるならば「大いなる希望」を伝えることでもあるのです。誰であっても死をもって閉じていかなければならない現実の中で、死の先に存在する大いなる希望を知りたいと願っているのではないでしょうか

この世のことは、夜の9時から11時の時間帯にニュ−ス番組が目白押しですし、新聞を読めばさらに詳しくわかります。けれども神の国について、一体どこで知ることができるでしょうか。聖書の教える永遠の救いと神の国の希望を語る人の存在が不可欠です。しかも、その希望を自らが信じ、確信し、輝いていることが求められています。神の国に望みをおいている者だけが、神の国を宣べ伝えることができるのです。たとえ、死に直面しているそのぎりぎりのただなかでさえ、揺らぐことなく、ぶれることなく、迷うことなく、しっかりと静かに、語ることができるのです。

3.    パウロは「主イエスキリスト」を宣べ伝えました。

この表現は、2重の意味を持っています。異邦人たちには「イエスは主である」こと、すなわち「イエスこそまことの王である」ことを指し示します。一方、ユダヤ人たちには「イエスはキリストであること」、すなわち「イエスこそ約束されていたメシア・救い主であること」を指し示しています。したがって、異邦人にもユダヤ人にとっても「イエスの名」は最も重要な名であり、特別に価値ある名なのです。

悩みや迷いが多い人生の中で、まことの人生の導き手を待ち望む人々には「イエス様があなたの主となり王となられます」とお伝えすることができます。心から安心してお任せできるお方が、「主イエスさま」なのです。主であるイエス様は、私たちの人生を導く光となり、良い羊飼いとなってすべてを導いてくださる、心強い「人生の導き手」なのです。

過去と他人は変えられないと昔からよく言われます。しかしながら、過去に犯した過ちや罪の呵責に苦悩する人々は決して少なくありません。償いきれない重荷に耐えられなくなって、心を病み、死を自ら選ぶ人も少なくありません。そんな人々には、「罪からの救い主」としてのイエス様を語りましょう。十字架の赦しを語ることができます。

救い主キリストは、全世界の人々に、罪からの赦しと解放をもたらすことができる唯一のおかたですから。なぜなら、キリストは十字架にかかり、罪のさばきを身代わりとなってその身に受けきり、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。十字架であなたの罪を身代わりとなって死をもって償いきってくださったキリストのみが、「あなたの罪は赦された」と宣言できる権威と実績をもつお方なのです。

イエス様はさらに「癒し主」でもあります。イエス様は、生老病死という4つの人生の重荷からの解放者であり、病からも救うことができる癒し主とも呼ばれています。誰でもイエス様のもとに来るならば魂の救いと、こころとからだの癒しを得ることができます。あらゆる人生の重荷をおろすことができ、平安を得ることができるのです。多くの人々が求めている真の居場所が、イエスさまのもとにあることをきっとお知りになるでしょう。

事実、多くの人々がイエス様の招きの声を聞き、一人で負い切れなかった重荷をイエス様のもとにおろして、平安を得ることができています。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

4.    大胆に語った

パウロは福音を大胆に語りました。この結果、パウロは再び囚人となり獄中生活を余儀なくされました。2度目の逮捕は、皇帝への反逆罪による逮捕でしたから、今度こそ、死を覚悟しなければなりませんでした。それでもパウロは、みことばを、神の国を、イエスが主であり・キリストであることを大腿に語りました。なぜでしょう。それは、パウロが確信をもっていたからでした。

ロ−マ116-17で、パウロは「福音を恥とは思わない。救いを得させる力だから」とはっきりと語っています。

あらためて考えてみましょう。伝道とはなんでしょう。聖書から多くのことばを語ることではありません。「確信」をもって、静かに毅然と真理を語ることです。もし、あなたが「イエス様を信じたら救われますか?」と、聞かれたならば、迷わず「はい、救われます」と、確信をもって答えましょう。

ドイツの高級車メルセデス・ベンツのトップセールスマンが新人セールスマンに秘訣を伝授したそうです。「もし、お客さまから、どうしてベンツはこんなに高いのですか?と尋ねられたら、静かに確信をもってひとことだけこのように答えなさい。『なぜなら、ベンツだからです』」と。お客さんはそれで納得して購入されるそうです。ベンツに対する誇りと確信が、相手に伝わるとき、相手の心も揺さぶられるのです。

「信じたら救われると言われましたが、では、その根拠はどこにあるのですか?」ともし、聞かれたならば、静かに答えましょう。「信じる者は救われると聖書に書いてあるからです」「イエス様がそういわれたからです」と。重要なのは説明ではなく確信です。

もっとも、「では聖書のどこに書いてあるのですか?」と、問いかけられて、うろたえるようなことがあって確信の効果も半減してしまいます。少なくとも次の3か所は、すぐに聖書を開くことができるように準備しておきましょう。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているの                   です。」(ヨハネ5:24)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)


「訪ねてくる者にパウロは、神の国と主イエスキリストを大胆に語り伝えました」と、今日、私たちは学びました。

私たち宇治バプテストキリス教会のミッション(宣教)ステ−トメントは、わかりやすく次のようなことばで、表明されています。

          「私たちはあなたの人生に、キリストにあるこころのやすらぎと明日への希望をおとどけします」  
                
                          さあ、この宇治の地で、みことばを伝えましょう。



   

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